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「空気」という名の暴力

すでに何度か書いてきましたが、「空気を読む」時の「空気」とは人々が盲目的に真実であると信じていると思う「前提」です。

「暴力」と書くと、不必要に危険な感じがして嫌な気持ちになる方もいるかもしれません。それに「空気を読む」というのは日本の良い文化でそれを「暴力」呼ばわりするなんてけしからんと不快に思う方もあるかもしれません。

それはとてもよくわかります。
私も日本の空気を読む文化を最初はむしろポジティブなものとして捉えていました。空気を読まないアメリカ人といると空気を読んで欲しいと思う事もあります。あえて言わずとも理解しようとする態度が育成されていることは素晴らしいことです。それに、説明したり揉めたりすることなしに、みんなが同じことをできる(例えばマスクの着用)のは効率の良いことです。アメリカではまだマスクをすることを拒否している人が多くいることを思えば、ここの国民性は評価に値するでしょう。

空気を読むことの是非は後日にまとめたいと思いますが、ここで書きたいことは「空気を読む」ことの結果の良し悪しに関わらず、「空気を読め」という態度を押し付けることは暴力的であるという視点です。

日本語でも押しつけがましいという言い方があります。

読んでいる空気の前提が結果的に良い結果をもたらすであろうと推測できることであってもそれをしたいかしたくないかを決めるのは個人です。良い結果を産むということが理解でき、各人がその前提を読み、それが大人数になればそれは素晴らしい力になるでしょう。それに、その前提を批判的に考える力が一人一人につけば、それはいずれにせよ良い結果を産むことになるかもしれません。

しかし、「空気を読む」行為自体には「個」は存在していません。
もちろん、読んでいる「前提」にも「個」は含まれません。
「私」と周り(世間)を切り離して考え、「私」の考えはどうであれそれを世間の前提に合わせていく行為が空気を読む行為であり、「個」=「あなた」の存在をないがしろにしている行為が空気を読むという行為だからです。そして、それは成熟した社会とは言えません。

日本にはまだまだ個人を犠牲にすることをよしとする文化がたくさんあります。学校でもそうです。私は学校がブラックを呼ばれるようになった背景にあるものをSacrificing Culture(犠牲文化)と呼んでいますが、これも「個」を犠牲にすることから成り立っています。犠牲文化の存在により、どれほどの教師が心身ともに不調になっていることでしょうか。またそうならずとも二次被害を被る同僚や生徒のことを考えてみてみてください。

「空気を読む」行為自体は日本を代表する独特の文化です。
ただ、今後はそれをさらに細分化する、または別の概念を付け加えることで「空気を読む」能力の進化や新たな定義づけが必要ではないかと思っています。

私たちの大切な文化を、一人一人の犠牲の上に成り立たせるのではなく、個の魅力が輝く集団としてさらに力強いものにしていきたいですね。



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