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【え10】若きウェルテルは鈴木雅之

若きウェルテルには悩みがある。

眼前には確固たる目標はある。
確固たる目標を手に入れるべき力も有する。
社会に出て恥をかかぬ手立ても有する。
全てが備わっている。

しかし、ウェルテルには自らにない羨望があった。

極めて自由であり、極めて合理的な社会に身を置いた友がいた。
自らが好む事を学び、自らが好まぬ者と会うこともない。
なにより、それを寛大な心で見守る両親もいる。
ウェルテルにとって、友は羨望以外の何物でもなかった。

若きウェルテルには、3つの問を有している。

「私が身を置く場所」は何の為に存在するのか。
そこに身を置かずとも、目標を叶えるべく術はあるではないか。
世の目に怯える両親の為に、私はそこに身を置かねばならないのか。

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若い頃は、皆それを悩む。私もその一人だった。
私はウェルテルに、経験に則った上で一定の答えを提示した。
そして、それを見たウェルテルの思いや雰囲気を感じ取った。
曲にすると、こんな感じだ。

「違う違う、そうじゃ、そうじゃない」

若きウェルテルよ、君は鈴木雅之か。
△▼△▼△▼△

ここからは、現実的な表現も多少混じる。
私は今一度、若きウェルテルの悩みを分析した。

●ウェルテルは自らの「目標達成」の目途はついている状況で、この「ハコ」に通い続けるのは『消化試合』のようなものだ。
●全ての者が異なる道へ進むのに、「同じハコ」で「同じカリキュラム」をこなし続ける

どうやらウェルテルは「ハコという存在」に対して不満があるようだ。
そして。

●世間体に縛られている親
●友が選んだ「別のハコ」を色眼鏡で見る風潮

ウェルテルは「世間の目」にも不満があるようだ。

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学校と世の中に対する不満。
私が尾崎豊なら、自分のアルバムを渡していただろう。
私が北方謙三なら、迷わず「ソープへ行け!」と言っていただろう。
残念ながら、ウェルテルはうら若き少女なのだが。
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ウェルテルが言うところの「ハコ」は存在する。それは事実だ。
そして、友が選んだ「別のハコ」も社会的に認知されるようになった。
それに対する世間体も、以前より遥かに変わってきた。

今すぐにでも「ハコ」から旅立とうとする者に対しても、「ハコ」は決してすぐに不要となる物ではない。そこで学ぶ物は、すでに得たであろう『5つの事』だけではない。

●ルーティンに耐える力を養う場
●嫌なヤツと付き合う事を学ぶ場
●世の中の全てにおける「嫌な事」に耐える力を養う場

この一年間、その「ハコ」の中に身を置くこと。
それは、今までとは異なる物を学ぶ場に変わる。
「ハコ」は変わらないが「手に入れる物」が変わるのだ。
そして、自らが能動的に手に入れなければならない。
今まで教えを被ってきた師は、決してそれを教えない。

目標とする場は、自分にとって心地よい事ばかりではない。
自分の想像を超越した、厳しい場でもある。
たとえその場へ向かう為にワンクッション置いたとしても。

日々行う単純で退屈な作業や業務。
それをいかに充実というか「ソツなくこなせる」へと変換する事が出来るか。転換させる事が出来るか。
それを自らの手で学び、養う場へと変わるのだ。

嫌なヤツ。腹が立つヤツ。見るだけで虫酸が走るヤツ。
先輩、同僚、後輩。上司や、それを訪ねてくる者。
自らが担当する者、それに否応なく取り巻く者。
彼らに対して、どのように立ち回りができるか。それを実践で学ぶ場となる。それは数多の書物にも最適項となるものはない。
Googleで「嫌なヤツ かわす 対応する」と検索してもフィットする言葉は簡単には見付からない。

新しい「ハコ」。更に新しい「ハコ」。より新しい「ハコ」。
今ここにいる「ハコ」よりも、厳しい場になるかもしれない。
それが次の進路や、新たな勤務先や、その業界の枠であっても。
今の「ハコ」とは異なる名称で呼ばれている「ハコ」は数多くある。
その全てに対し心地よく収まる者など、この世には僅かしか存在しない。
多くの者が耐え忍ぶ。中には異を唱え「ハコ」から飛び出す者もいる。
その者を歓迎し、容易に受け入れるほど世の中は甘くない。
ミクロン単位の微粒子により、夢敗れる者もいる。
遠い国の一企業が倒れた事により、荒波に飲み込まれた者もいる。
世の中における森羅万象に耐え得る力を、今いる「小さなハコ」で学ぶ。
魑魅魍魎と相対する策。「小さなハコ」は、それを学ぶ場となる。

その足で立つ「ハコ」での生活は、残りわずか。
この「ハコ」での学びは、若きウェルテルが考える以上に多い。
僅かな期間を怠惰に過ごすか。充実したものとするか。
それはウェルテル次第なのだ。

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あぁ、なんて甘美な響きなのだろう。
「若きウェルテル」という哲学的な言葉は、経験値だけが無駄に多いフリーライターを『哲学者』へと変えるのだ。
そして私の心の中にある「JK」という言葉が持つ破廉恥な思いを、「若きウェルテル」という表現が、一瞬だけではあるものの吹き消すのだ。
これからはJKと呼ばず「若きウェルテル」と言い換えよう。
そうすれば、少なくとも『淫行条例』なるものから遠ざかる。今も十分遠ざかってはいるが。
そもそも私には◯◯活とやらにぶち込むモノなどない。甥という存在が、私をそうさせている。私のストッパーとなっている。
もし甥がいなければ、それなりにある貯金を◯◯活とやらに注ぎ込んだと同時に、両腕も後ろに回っているだろう。
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若きウェルテルに言いたい。
これは決して「答え」ではない。あなたもそう思っている筈だ。
あなたより二周り先に生まれた者として「ヒント」を与えたに過ぎない。
これらは全て、私の『後悔』から生じたものなのだ。