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男とか女とかそんなに大事か?について考えること〜多様性を実現するには〜

以前このような事を呟きましたが

男とか女とかの違いがそんなに重要なのか、というと、そうではない世の中に近づいてきていると思う。
それはどう言う意味かと言うと、差別がなされなくなったという意味。当たり前だが以前区別はある。

もし区別がなくなれば、銭湯は全て混浴化するし、トイレも更衣室も全て一緒になるだろう。
はっきり言って肉体が女性の人の方が困るはずだ。
お風呂でジロジロ見られ、その男性がめちゃくちゃ性的に興奮していたとしても、区別がないからそのままだ。
そういう思いをしたくないから女性たちは閉じこもる他ない。
区別がなされないが故、身体条件的に弱い女性たちは引きこもって暮らすしかなくなるのである。

男女の差別は無くなって良い。でも区別は必要。
これは重要なことである。
その辺をぐちゃぐちゃに考える人がいるから、たまに混乱する。
女性が医者になってもいいし、男性看護師も必要だけれど、2人の更衣室は別。
その辺のことが理解できず、全部一緒になれば世界平和じゃない?と思う方は、堂々と自身の肉体とは違う性の銭湯に侵入し、顰蹙を買い逮捕されたらよい。

結局、お互いに不都合だから必要な区別する。
でも、必要ない区別は要らないからやめましょうという事です。大体必要のない区別は差別ですからね。そゆことそゆこと。

さて、昨今は男女の区別を超え、否、もっと多様な性が存在するんですよと、LGBTが、さらにLGBTQ、いまやもっと増えつつあると言う。
最近、私が最も愛してやまないアーティストである、宇多田ヒカル氏はノンバイナリーを公表した。

昔に比べ、本当に性というのは多様と認識されたはずなのだが、依然として30年前と変わらず、男だ女だと言っていて不思議。
私が小学生の頃にはですね、男だ女だとか言う奴は古い!とすでに言われていたんですよ。時は90年代の終わり頃だったというのに、未だに本質は何も変わらない。

女性宇宙飛行士に、女性鉄道員。(新幹線の弁当売りの人じゃないよ)さまざまな場所で女性の活躍を見られるようになったが、そのめざましい変化も2010年頃から鈍化し、女子力などと言う言葉がまことしやかに流行り始めたあたりから、結局男女の括りに戻されてしまった感がある。


せっかく出てきた多様性らしきものも、結局男女のそれから抜け出せないのは何故か。
スポーツ界には、それが如実に現れている。

とある元男性選手(トランスジェンダー)は、東京オリンピックにて女性として出場したが、その行動にはさまざまな意見が出ていた。
その中でも私が気になり、かつ最も議論されるに違いないと思うのは
「それはアンフェア」
という意見だ。
実際に海外では、性転換した元男性が女性として競技会に出場しよい記録をだして、もともと女性だった者たちを抜き去り、元男性達が強化選手に選ばれ女性達は競技を追われてしまう、なんて事態も起きている。


せっかく多様性が出たのに、世の中の括りは男女しかないので、このような歪なことが起きるんですね。
多様性というのだから、男女以外の区別を作ればよいのに、その当事者である性転換した選手から意見をあまり聞いていない気がする不思議。
結局のところアレなんですかね。
多様性と言いつつ、本当は男性か女性かのどちらかなんだよ、という強烈なアンチテーゼなのだろうか。
それとも単に、自らの優位性を駆使して勝負に勝ちたいだけなのだろうか。
私には分からないけど、唯一理解していることは男女は違う、どちらも大事、という事だ。
そしてそれ以外の性も、大事なのだ。

ところで皆さんは、キャスター・セメンヤという陸上選手をご存知だろうか。
彼女は女性として競技会に出場していたが、外見、記録の高さ、などさまざまな理由から自身の性別を疑われ、検査や調査がなされた。
その内容及び結果はメディアによって世界中に行き渡った。いまだにWikipediaには、本来なら本人しか知り得ないであろう極めてプライベートな内容が、まことしやかに書かれている。

それらが問題になった当時は、本当か嘘かも分からないことが、そこらじゅうで発信され、彼女は競技関係者のみならず、全世界から様々なバッシングを受けた。
つまり彼女は、世界中からプライバシーの侵害がなされたのだ。
彼女対世界、というレベルでのイジメ的構造。
性とは何か、スポーツとは何か、たくさんの問題を孕んでいるが、1番深刻なのは恐らく彼女になんの配慮もなされなかった事だ。

同じことはしてはならないのに、また同じことをしようとしているのは、マジョリティと言われる大多数の人たちが、全く当事者意識がないからだ。
きっと他人事だと思っている。
自分は男か女かに正確にカテゴライズされる体で生きているから、その苦悩を考えようとも思わない。その発想すらない。
だからみんなで困るべきなのだ。
みんなで一緒に、平等に困るのが理想。
困って困って適切な答えを見つけたい。

世界平等、男女の均等化、私はそんなものが実現するとは思っていない。むしろ、悩み考え続けることに意味がある。
みんな違ってみんないいと金子みすゞは言ったけど、いつだって強いものが優位に立つのがこの世の理。

マイノリティの立場に立たされ、圧倒的マジョリティの人間から
『それは大したことないよね』
と笑顔で言われた私がいう。
その時の悔しさは忘れたくない。
悲しみを受け入れるのはもうたくさんだ。
でも変化より受容のが楽。
そんなことは知り尽くしているけど、その先に未来があるから変えなければならない。

私の場合だが、少なくともだ。
みんなが真剣に考えてくれている時は救いがある。結果よりもその思いやりに私は救われる。

優しいかおをして聖人ぶる人にも、醜い顔と差別感情はある。
誰にだってあるものは変わらないのだから、それを受け入れ考える力を。
結果よりも過程が大事。
少なくともそれに向けて努力している時、変化している時は、諦めよりも優しさがそこにある。

私が辛かった時に、私を慰めてくれた人は誰だろうか。
それは私の事を真剣に考えてくれた人。
それはつまりそういう事。
男女平等も多様性も、みんなが当事者意識を持たないと、永久に実現しない。

全てがマジョリティな世界など存在しない。
皆が皆、少しでも状況が変わればマイノリティになる可能性を孕んでいる。
それに皆気が付かないだけで、なにも考えずに過ごしている。

幸せの中に少しの不幸を。
そうすれば他人の痛みも考えられるから、みな幸せで、ちょっとした不幸があればいいのに。
と、私はつい願ってしまうのである。


※たまたまこの文章を書いている時に聞いていたんですが、これほどまでに愛を知らしめてくる歌もないのでここに。
なんだかんだいって、自分のことを真剣に考えてくれる人がいるだけで、どうしようもなく救われるんですよね。

※どことなく懐かしさを感じる男女のイラストを使わせていただきました。
かめつるさんありがとうございます。

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