記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

毒育ちが語る『チェンソーマン』

注意事項

・当記事は『チェンソーマン』(藤本タツキ著,集英社)の読了を前提としており、ネタバレを含みます。未読の方は十分にご注意ください。

・当記事はあくまで一読者個人の感想、解釈、考察に過ぎません。当記事によるいかなる責任も負いかねますので予めご了承ください。


   

『チェンソーマン』は『週刊少年ジャンプ』にて2019年1号から2021年2号まで連載され、「このマンガがすごい!2021」(宝島社)オトコ編で1位、第66回小学館漫画賞少年向け部門など数々の賞を受賞した作品。第2部は『少年ジャンプ+』にて連載予定。
(参考:https://manba.co.jp/boards/97981/awards)

  前々から気になっていて最近ようやく読了。筆者の語彙力が無さ過ぎて恐縮なのだが、「とにかく面白い」という表現しか出てこない。

 アニメ化も決まっており、そのティザームービーもまたカッコ良い。


 その『チェンソーマン』を筆者は「毒親/毒家族を巡る物語」と解釈した。それを紐解くにあたって以下の記事を参考にさせていただいた。



マキマという存在

『チェンソーマン』がいかにして毒親/毒家族と巡る物語かを説く上で、まずは作品自体のキーマンであるマキマについて述べていく。

 マキマとは、デンジにとって母でもあり姉でもあり初恋の相手でもあるという何ともカオスな存在および毒親の化身(参考記事によると厄介オタク)そのものである。そして『チェンソーマン』という物語はマキマで始まり、マキマで終わると言っても過言ではないと私は思う。


 以下にマキマに見受けられる毒親要素を列挙してみた。

・表向きはデンジの衣食住や生活を保証する親のような役割を担うが、その裏にはマキマの“思惑”があった(“思惑”については後述)
・姫野、レゼ、アキ、パワーといったデンジに好意を持って近づいた者、デンジの安全基地となり得る存在を次々と排除および殺害
・マキマの無限残機は「親や家族という縛り」「家庭内に留められる問題」「家族相手には何をしてもいい」のメタファーか
・ネズミやカラスを使った盗聴や監視もお手の物
・チェンソーマンを囃し立ててデンジの自己顕示欲や自己愛を刺激して思い通りに操ろうとする
・「私はチェンソーマンのファン」「食べられるなら本望」と崇拝している口ぶりも「貴方のため」「私は貴方の一番の理解者」と言う毒親と似通う
・デンジが反抗の意を見せると「…私達の邪魔するなら死んで」と本性を剥き出しに
・マキマは終始「チェンソーマンの存在(心臓)」にしか興味がなく、デンジの人格や趣味嗜好など眼中になかった≒マキマは目が見えない説(以下リンク参照)


 かくしてマキマとは「私の理想を叶えてくれるチェンソーマンとしてのデンジくんは好き好き〜〜彼を奪おうとする他の奴らはバイバ〜〜イ」という思考の持ち主である。筆者に言わせてもらえば「自己愛、ここに極めれり」だが、これこそがマキマ(支配の悪魔)の本質であり、毒親/毒家族の正体にも通ずる。

画像1

(『チェンソーマン』一巻 第2話より 藤本タツキ:集英社)



デンジとコベニが生き残った理由

 筆者が本作読了後にもっとも気になっているのは、コベニが生き残ったという事実だ。人一倍退職もしくは殉職フラグが立っていたのにもかかわらずに。そんなコベニとデンジの共通点と言えば、家族関係の“柵”だろうか。

「親が優秀な兄だけは大学に行かせたいからって私に働かせたんです〜… 風俗がデビルハンターしか選択肢がなかったんですぅ〜!」
(『チェンソーマン』 巻15話より 藤本タツキ:集英社)
「離れる理由ができてよかった…」
(『チェンソーマン』十一巻 第92話より 藤本タツキ:集英社)


 そして岸辺はこう言う。

「悪魔が恐れるデビルハンターはなあ…頭のネジがぶっ飛んでるヤツだ」
「まともだから悪魔の攻撃を恐がっちまう 恐怖が悪魔の力になるからな」
(『チェンソーマン』三巻 第19話より 藤本タツキ:集英社)

 岸辺の発言から鑑みるに、デビルハンターおよび『チェンソーマン』の世界では、家族難を抱える人間しか(長く)生き延びれないのかもしれない。まともな親や家族ならば「辛かったら帰っておいで」とでも言ってくれるのだろうが、毒親/毒家族持ちには当然そんな逃げ場所など用意されていない。どんなに仕事が嫌でもあの親や家族の元に帰る訳にはいかない。それがデビルハンターのような過酷極まりない仕事だとしても毒親/毒家族持ちの彼ら彼女らはそれにしがみつくほかない。

 確かに現実世界も似たような構造なのかもしれない。デンジがマキマに目をつけられたのも彼が父親を殺したという過去(事実)があったからではないか。

「デンジ君のお父さん 自殺したんじゃなくて キミが殺したんでしょ?(中略)それで自分の父親も殺して そんな人間が普通の生活なんて望んでいいはずがないよね?」(『チェンソーマン』十巻 第82話より 藤本タツキ:集英社)

 生まれ落ちた親や家庭次第で“柵”が生まれ、“柵”による匂いは一度心身に染みつくと簡単に消えない。そしてその匂いによって悪魔のような人間に一生付きまとわれる──その“柵”が、『チェンソーマン』の随所に表現されていると筆者は感じている。



マキマの“思惑”とは

 ここでマキマの“思惑”を私なりに紐解いてみる。

 まずマキマが傾倒してやまないチェンソーマンとは、「己の(利益の)ために戦い、不都合や恐怖を消し去り続ける存在」であると私は認識している。マキマはこのチェンソーマンと共に「人間にとって“悪い”ものをすべて取り除き、より良い世界をつくること」を目的としていた。

 俗に言う“悪い”ものが淘汰されて“良い”ものだけが残れば、確かにいずれより良い世界になるかもしれない。しかしその“良し悪し”とは一体何処の誰が決めるのかと、私は首を傾げる。無論『チェンソーマン』の世界ではその決定権者はマキマに違いないだろうが、それはもはや神と同等の存在である。すべてがマキマの基準で選別されて基準に満たない者は淘汰されていく様は支配、いやもはや独裁である。より“良く”進化して改善し続けた果てには本当により良い世界が待っているのだろうか……。

 このより良い世界、つまり完璧や理想を求めすぎた結果として毒親という概念も生まれるのではないかと筆者は推察している。理想追及者のマキマに対してデンジは、終始“普通”を求めている。

「みんな偉い夢持ってていいなア!! じゃあ夢バトルしようぜ!夢バトル!!」
(『チェンソーマン』ニ巻 第10話より 藤本タツキ:集英社)

つまり「大層な夢なんざ無くとも食う寝る処に住む処と仕事があれば十分なんじゃねぇの?」と。終盤でこそ(おもに性)欲が爆発したのは少し置いておくとして、マキマが反吐が出るほどのロマンチストな母親であるのに対して、デンジは非常にリアリストな息子である。ついでに言えば、コベニも(若干情緒は不安定だが)リアリストそのもので彼女こそ『チェンソーマン』においてもっとも地に足を付けて生きていたキャラクターである。

「それが普通でしょ?」
(『チェンソーマン』十一巻 第92話より 藤本タツキ:集英社)


 より良い世界を創ろうとすることでマキマのような夢見がちな毒親(毒母)が生まれてしまうのならば、私にとってそんな世界はクソ喰らえである。より“良く”なくていいから、むしろ多少不便でも構わないから、この世に生を受けたすべての子が食う寝る働く遊ぶを経て“普通に”暮らせる世界が一番望ましいのではないか。


進むも地獄、進まぬも地獄

 ここで少し視点を変えてみる。
 毒親とは、往々にして完璧な親とは言い難い存在だ。マキマの《より良い世界的思考》に照らし合わせれば毒親という存在もより“良い”社会に相応しくない、つまり淘汰されるべき“悪い”存在と言える。そして毒親という概念には、「この世に生まれ落ちたすべての子供が然るべき養育および教育を受けるべき」という前提がある。しかしこの前提こそマキマの語る《より良い世界的思考》に基づいているという矛盾に私はたどり着いた。

 毒親という概念がより良い世界へと進む間に生まれた副産物的存在であるとすれば、毒親とは「その子供が自分にとってより良い世界を追求することで初めて成立する」存在とも言える。

 かくいう私自身もそうである。自分は本来こんな家庭に生まれ落ちるべきでなかった、相応な親や家族に育てられたかったという願いは、ある意味傲岸不遜である。

 
 これはただの正論に過ぎないが、この世に生まれ落ちた以上は四の五の言わずに自身が持ち得るカードを駆使して「清濁を併せ呑んで生き抜くしかない」のである。とは言っても毒親/毒家族のせいで「清濁を併せ呑んで生き抜く」ほどのメンタルも気力も持てなかった立場としては、私はやはり私の毒祖母や毒親/毒家族という存在を赦すことは到底できず、今もなお憎むことしかできない。そして「やっぱ毒親ってクソだから全員死んだ方がいいわ」というマキマの《より良い世界的思考》に舞い戻ってしまう。

 詰まるところデンジのように「清濁を併せ呑みながら」自らのチェーンソーで負の連鎖を断ち切るしかないのだろうが、それを実現できるのもごく一部の人間に留まるのもまた残酷すぎる事実である。
 たとえば今の御時世「(束縛から放たれて)なりたい自分になる/なろう」といったフレーズが巷で囁かれまくっているが、それは結局まともな家庭やある程度の経済力、そして先の「清濁を併せ呑んで生き抜ける」ほどの気力などを“持つ者”だけに許される甘い夢に過ぎない。逆にそれらを“持たざる者”は甘い夢を見ている暇もなければ、仮にその夢を実現しようにも多大な苦労を要する。

 つまり毒親/毒家族や家族問題を抱える者にとってはより良い世界を求めて進むも、より良い世界を諦めてそこに留まるも、待ち受けているのは地獄なのだ。その地獄では誰もがマキマになり得るかマキマのような悪魔に支配されるしかないと考えると、「この世や現代社会こそが地獄の悪魔そのものなのでは……?」と筆者は感じざるを得ない。


ポチタとパワーの存在

『チェンソーマン』においてマキマと対を成すのが、ポチタとパワーである。彼あるいは彼女はデンジの安全基地、つまりデンジの親に近い存在なのではないか。

「普通の暮らしをして 普通の死に方をしてほしい」
(『チェンソーマン』一巻 第1話より 藤本タツキ:集英社)
「デンジはワシのバディじゃからな!」
(『チェンソーマン』十一巻 第90話より 藤本タツキ:集英社)


 ポチタが言うように支配の悪魔あるマキマは愛情や信頼、つまり安全基地という存在が欲しかったのだ。単に都合の悪いものを消したり他人を思うままに支配したりする方法では、“真の”安全基地は決して築けない。互いに信頼できる関係、自然とハグできるような関係、辛い時に寄り添ってくれる関係、責任持って向き合ってくれる関係、そして飢餓や死、戦争といった問題に対して共に立ち向かってくれる存在をマキマ欲していたが、彼女は支配することでしか他人と繋がれなかったのだ。

 だからポチタはマキマの生まれ変わりであるナユタを「たくさん抱きしめてあげて」とデンジに懇願した。支配という形ではなく、時間をかけて真摯に向き合うことが安全基地を形成するとポチタは知っていたからだ。


デンジがマキマを食べた理由

 デンジがマキマの肉を捕食していく場面に差し掛かると、私は「え、これ『週刊少年ジャンプ』の漫画だよね……?『別冊少年マガジン』じゃないよね……?」と何度も確認した。

「マキマさんってこんな味かぁ……」
「俺…あんな目にあっといて……まだ心底マキマさんが好きなんだ (中略)だから…さ 俺も一緒に背負うよ マキマさんの罪」(『チェンソーマン』十一巻 第96話より 藤本タツキ:集英社)

 
 散々毒祖母や毒親/毒家族への呪詛を垂れ流している私が言っても説得力など無いだろうが、このデンジの台詞には共感しかなかった。あんなに酷い仕打ちを受け続けたはずなのに“完全に”嫌いになれないのは、やはりマキマがデンジにとって命の恩人であり、母親であり、姉であり、初恋の相手であったからだろう。私にとってはそれが毒祖母および過去の母であるが、特に母については完全に見捨てることはできなかった。毒祖母についても肉親である以上、“切っても切れない縁”のようなものを感じている。端的に言えば「家族だから仕方がない、どうしようもできない」のである。
 
 毒親/毒家族を持つ者は、肉親の一人として彼ら彼女らの罪を共に背負うという責任を否応なく架せられる。それを自ら果たすべく、デンジはマキマの肉を食らうという行為に及んだのだろう。“様々な意味合い”でマキマと一つになった(すべてを受け入れた)上でナユタを育てることでデンジは、これからマキマとナユタ双方の安全基地になろうとしているのではないか。

 かくしてデンジはマキマ(支配の悪魔)および毒親/毒家族と真っ向から戦い、負の連鎖を断ち切った。つまり「マキマは切られることでママになった」という訳だ。
 そのデンジが第2部ではチェンソーマンとして人を助けたり“今度こそ”青春を過ごしたりするのかもしれない。あるいはまた別の悪魔やそれに準ずる存在との戦いに引きずり込まれるのかもしれない。(個人的にはその方が藤本先生っぽいなと筆者は勝手に思っている)

 先程も述べたが、当作品が「週刊少年ジャンプ」で連載されていたことに私は再三驚いた。個人的な欲を言えば別の媒体でよりエグい表現を出しても良かったのではと思ったが、それはアニメの方で回収してくれると信じている。(これも勝手に)

 原作第2部もアニメも楽しみなのでもう少しだけ生きてみようと思います。というか第二部早く始まってくれ〜〜〜。


画像2

(画像は筆者撮影、我が家のポチタ)

この記事が参加している募集

#マンガ感想文

20,546件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?