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毒育ちが考える発達障害かもしれない人たち


注意事項

・当記事はほぼ愚痴です。筆者の性格の悪さが全面に出ていますので閲覧は自己責任でお願いします。

・当記事は発達障害の(傾向がある)方への批判的な表現を含みますが、発達障害およびその傾向がある方、特定の人物、一個人に対する誹謗中傷を目的とはしていません。

・あくまで非専門家である筆者による個人的見解です。当記事によるいかなる責任は一切負いかねます。あらかじめご了承ください。


身近に居る「発達障害かもしれない人」

 毒親となる原因の一つに、「発達障害」がある。私の毒祖母および過去の母は、いずれもパーソナリティ障害(の傾向)に起因する毒親であったゆえに発達障害とは無縁だと私は認識していた。しかし最近、私の毒祖母は若干ながら発達障害も併発していたのではないかと考えるようになった。それを踏まえて私や家族、友人の周囲を顧みると、発達障害かもしれなかった人とは意外と身近に居たように思える。


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 とある職場に20代の既婚女性(以下Pさん)が居た。このPさんは発達障害かもしれない人かつ自己愛もやや強かったと私は結論づけた。もちろんこれは素人判断に過ぎず、本人の自覚や診断結果の有無は預かり知らないことを先に断っておく。なお、このPさんの事例は私の知人や私自身の体験談および古今東西の話に基づいた半フィクションである。

【Pさんの特徴および言動】
身だしなみが整っていない(髪はボサボサ、洋服の汚れやシワ、時にはにおいも気になった)
・作業や商品をなかなか覚えられない
・他のスタッフに何度も同じ質問をする(忘れたら訊けばいいと思っていた?)
・丁寧な指導や教育を何度重ねてもすぐに失念する
・不要不急な報告や空質問が多い
・お客様に対して「こちらで少々お待ちください」や「お時間いただいてよろしいですか」という言葉が咄嗟に出ない
・お客様が近くにいるのに場所を譲らずに作業を続ける
・お客様の予算や要望を伺わずに一方的に話を進める
・業務の優先順位を理解していない
絶対にドアをノックしない
・公共スペースを散らかす(Pさんが好んで食べる菓子の食べカスで彼女の出勤を確認することもあった)

 身だしなみがなっていないこと、仕事の遅さ、社交性の無さだけでも周囲は辟易したが、もっとも困ったのは「Pさんに対して何一つとして仕事を任せられなかったこと」だった。Pさんが何かする度に誰かがサポートについたりダブルチェックをしたりするので必然的に他のスタッフの業務量が増えるという“二次被害”が起きた。そこから別のトラブルに発展して、さらに別の問題が……といったように次々と被害が拡大したことも多々あった。 

 このPさんなる人物とは、根本的に「他人への配慮や気遣い」というコマンドが抜け落ちていたのかもしれない。仕事の覚えがかなり遅いところを見るに、知能面も少なくとも当時のその仕事を遂行する水準に達していたとは言い難かった。


正直、周囲はただただ疲れる

 この世で恐ろしいのは、《宇宙人》であると私は常々主張しているが、その最たる理由は、「彼らは法律違反や懲戒免職/処分に値するほどでないが、絶妙な具合で周囲をイラつかせ、大なり小なりのトラブルを頻発させるから」である。発達障害かもしれない人たちも形は違えど、それを“見事に”成し遂げてくれるから困る訳だ。そして最後の最後には、「もうこの人には何を言っても無駄だ」という「諦め」に至るのは悲しき人間の性であろう。

 実際に時間が経てば経つほど、Pさんを指導する回数は少なくなっていった。その代わりに「被害を最小限に留められる仕事」をいかにPさんに回すかを考えるようになっていた。もっともPさんが“無意識のうちに”犯したミスを周囲の人間が密かにカバーしていることを、Pさん自身は知る由もなかったと思う。もちろん直接注意することもあったが、翌々日には何事もなかったかのように同じミスが繰り返された。
 まあ単刀直入に言ってしまえば、Pさんは足手まといだったし、その現場の戦力や士気はただただ下がるだけだった。Pさんに対する不満はもちろん、各の待遇や業務時間、業務量についても不公平だという声が上がるのは時間の問題だった。「あのPさんと同じ時給ってバカらしくなる」や「何で私たちがPさんにばかり気を遣わないといけないの?」といったように。

 その一方で自分は仕事ができていると言わんばかりの素振り、注意されると必ず言い訳から入るという行為も目立った。接客やパソコン作業は積極的に取り組もうとするが(結局一人で遂行はできなかった模様)、掃除や力仕事といった裏方仕事は決して進んでやろうとしなかった。これらを鑑みるに、Pさんは発達障害の傾向に加えて、自己愛の方も(かなり)強かったのだと思う。そんなPさんに対して「この人、よく結婚できたな」「とは言ってもこの人、結婚してるんだよな」といった感情を私は何度抱いたことか。

 あくまで推察の域を出ないが、Pさんは自分が周囲に迷惑をかけている、そしてまさか自分が発達障害かもしれないないなんて夢にも思っていなかっただろう。しかしそんな彼女を取り巻く人間は、誰しも疲弊する一方であったのだ。


本人が一番辛いのは分かるが

 昨今、発達障害やその傾向があることを大人になってから自覚した人が増加している。自分自身や発達障害と向き合いながら社会的に自立したり、その実現に向けて努力している人が存在することを私は知った。

 本人とその家族が感じた名状しがたい辛さと、それを克服すべく重ねた努力は無論強く認識できるが、その周囲の人間もまた同じようにしんどかったと私は思う。 なぜならば本人の自覚の有無にかかわらず、周囲の人間が多少なりのストレスを感じ、それが過ぎるとノイローゼやカサンドラ症候群に陥る危険性があるからだ。

 先に述べたように、発達障害かもしれない人たちに対するイラだちや呆れが積み重なると、やがて「諦め」にたどり着く。すると、周囲の人間同士で爆弾ゲームかのごとく責任の押しつけあいが始まる。最後にその責任を押しつけられた人が自暴自棄になる、気を病む、強い自責の念に駆られるという形で、その“爆弾”は爆発し、最悪はその人が離別や退職を決するという結果を招く。
 それに追い打ちをかけるように、現場の事情や発達障害について十分に理解していない人間が「その人の個性(笑)だから仕方がない」や「教育や指導の仕方が悪い」と、何とも的外れなことをのたまい出す。それが巡り巡って、ノイローゼやカサンドラ症候群を悪化させるかもしれないとも知らずに。

 いずれにしても発達障害かもしれない人の行動よる弊害とは、非常に説明しづらく、その場に居なかった人間には伝えにくいものである。本人に決して“悪気はなく”、表向きでは“一生懸命”やっているように見えるからだ。時として彼らは“ありがた迷惑”を施してくるが、それをどう迷惑なのかを説明するのもかなり難儀である。

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(画像はいらすとや様より)

 その事実からも周囲の人間はストレスがたまる一方であり、彼らの精神衛生を脅かすとともに組織の崩壊さえ招きかねない。これは、私の毒祖母のようなパーソナリティ障害(の傾向がある)者の周辺でもあり得ることだ。


無自覚だともっとしんどい

 それでも本人が発達障害(あるいはパーソナリティ障害)とその傾向を少しでも自認して診断さえ受けてくれれば、本人と家族による療養から始まり、職場や周囲も然るべき対応を取ることができる。しかし本人にまったく自覚がない上に改善の余地が見られない状態が一番しんどいのは、他人の発達状態やパーソナリティについてなど身内以外が指摘することは到底できないからだ。

 発達障害かもしれない本人やその家族、周囲の人も「もう社会に出たから障害など何もなかった」あるいは「結婚したからすべての問題は解決した」とでも錯覚するケースは多いと思う。その錯覚こそが、本人の発達状態(あるいはパーソナリティ)を覆い隠してしまうのではないか。
 繰り返しになるが、発達障害かもしれない人とその家族が一番しんどいのは深く理解しているつもりだ。しかし無意識のうちに他人に対しても負の影響を与えていることは、残念ながら事実である。他人にはなせることが限られている以上、本人とその家族がどうにかするしかないのもまた現実だ。それが叶わないのならば、周囲の人間はその発達障害かもしれない人に対する不平不満や「諦め」を上手くやり過ごすか、その人が去るのを祈り続けるか、最後は自分自身がその場を辞するしかないのである。その実、私はPさんの異動や退職を強く願っていた。 


余裕がない現代社会

 科学技術の発展、資本主義の拡大によって人々は常に目まぐるしく動き回るようになった。それが自己愛の肥大化を進行させたり、“大人”のハードルを高めたりしている訳だが、発達障害かもしれない人たちにとっては何とも生きづらい世の中であろう。一昔前ならば、身だしなみも時間管理も“ある程度”は適当で構わなかった。発達障害かもしれない人にも適した仕事がたくさんあったはずだ。それがたとえどんなに些末で簡単な仕事であったとしても。

 しかし今やみんな自分のことで精一杯である。資本主義の荒波の中を生き抜くには、自分自身と大切な人を優先的に考えざるを得ないからだ。

 会社や職場、学校やサークルといった組織はもちろん、インターネット上でも発達障害かもしれない人たちは真っ先に疎外の対象になりえる。“成熟しすぎた”現代社会とは、そのような異質な者を排除する傾向にあるからだ。私がかつてPさんに対してそう感じたように。

 発達障害やそれから派生する諸問題とは、もちろん本人やその家族の責任も確かにあるだろうが、社会的外因も複雑に絡んでいると私は考える。例えば発達障害にしてもパーソナリティ障害にしても昔は社会や地域全体でそれを療育および矯正していたが、今はそのような事象が減っている。現在は保護者や教員、周囲の大人が子供の何かしらの“不安定さ”に気がついて少しずつ療育するしかないが、不安定な子供たち全員がそのように扱われるとは限らないのが現実だ。

 確かにもっと時間と心に余裕があれば、私も然るべき方法でPさんを指導できたかもしれない。もしくはPさんに適した仕事や作業を見つけられれば、Pさんも他のスタッフも協力し合って気持ちよく仕事に励めたかもしれない──しかし当時はそんな“余裕”は、何処にもなかったのだ。

 こちらの言い分を言わせてもらうとすれば、私にも快適に仕事をする権利があり、それをPさんおよび彼女の言動によって阻害される筋合いもまたなかったはずだ。先述したように「Pさんに対して何一つとして仕事を任せられなかった」、つまりはこの職場はPさんに適していなかったに尽きる。より言わせてもらえば、己の能力について無自覚であり、人並み以上の自己愛を抱いているPさんに合う職場など果たして存在するのだろうか……いや、存在しないと私は今も思っている。

 そしてもしあの時Pさんが退職せずにその後彼女が原因でさらなるトラブルや内紛が生じたり、それが原因でPさんか他のスタッフを取るかという選択を誰かに強いたりしたかもしれない。
 しかし、そのような不毛とも言える“取捨選択”を余儀なくされる社会自体に存在意義などあるのだろうかとも思うのだ。もはや高度に発達しすぎた文明や科学技術を、この社会もろとも殲滅するしかないのだろうか。それこそ発達障害だパーソナリティ障害だ毒親だといった念ごと吹き飛ばすかのように。

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