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毒育ちが考える女性性と限りなく透明に近い違和感

女性の形を保つのが難儀

 毎日フルメイクして、ストッキングを履いて、スーツやオフィスカジュアルに該当する服装を身に着けて、ビジネスの範疇に収まる高さのヒールを履いて、出勤するビジネスウーマンたちを心の底から尊敬するとともに私は彼女たちには小さな嫉妬心を抱いている。業務の都合から貴金属、ネイル、華美すぎる化粧、髪型、服装は原則禁止とかなり緩いオフィスカジュアルだけでもかなりしんどい私からすると彼女たちは化け物である。

 と言うのもそのしんどさの原因とは、巷で言うところの女子力が低すぎるという私の怠惰ほかならない。髪型はヘアアレンジを施さなくても構わないショートかボブ頼りでろくな美容テクも美意識も身につけてこなかった成人女が、中高校生の頃から日々研鑽してきた女性らに勝てるはずがなかろう。


 基本的に「勉強や趣味>∞>オシャレ」という思考だった私は、もしかするとアスペルガー障害の傾向があって若干男性寄りの思考なのかもしれない。それでも心身ともに女性であることには変わりない以上、傍から見ればただの「女子力の低いズボラ女」に過ぎない。それは紛れもない事実なのだが、仮に“男性が”片付けられなくても身なりに無頓着でも生活力が低くても何処となく許されているように私は感じている。(少なくとも女性のケースと比較して)

 その女子力に加えて「女も働け!家事炊事も育児もちゃんとしろ!配偶者とも上手くやれ!」と色々求められてしまうと、正直ハードモードが過ぎる。心身ともに貧弱な私からすると、「女も働け!」の時点でもう精一杯だからだ。

 今後は男女問わず、より美意識や生活力が重視される世の中が到来する、というかすでにそうなのかもしれない。すると私のような女の肩身がますます狭くなると勝手に杞憂しているのは、女性が“社会から求められる女性の形”を保つのは結構難儀だなと日々感じながら生きているからである。



真の男女平等とは

 女性進出、素晴らしい。女性登用も本当に素晴らしい。私もそんな“夢物語”に期待していた時期がありますよ、ええ。そんな夢や希望を抱いて社会に出た私を待ち受けていたのは、歴然とした生物的な差と女性ならではのハンデがあるという事実だった。その現実に打ちのめされた私は、今や「女性しか妊娠、出産できない以上は真の男女平等って実現できないのでは……?」と思わざるを得ない。妊娠、出産に限らず、卑近な例として化粧品や身だしなみの消耗品、下着や衛生用品諸々、防犯への支出も女性ならではの“かなり痛い”出費である。当たり前であるが、男性と比べれば体力も筋力も少ない上に多くの女性は月に一度は月経という生理現象に見舞われる。

(生理用品が月2,000円でも年間2万4,000円、30年間続いたとして72万円。先の消耗品を含めると、女性で生まれた時点で百万円から数百万円の出費が確約されているという)

 企業や会社の立場からすると、女性に対しては寿退社や産休・育休を考慮した上で“色々と”考えざるをえないのが現実である。「積極的な女性登用!男女平等!」と言いながら企業努力したところで、綺麗事だけでうまく事が運ぶ訳もない。

 そもそも女性の一人暮らし(自立)とは、かなりの危険が伴うと私は実感している。それこそ女性の身内と住んでいる私でも“特段の理由がない限りは”実家を離れないに越したことはないと思ってしまうほどに。

 まあ身だしなみや防犯については文明の利器を駆使すれば何とかなるだろうが、妊娠や出産に関する平等性を突き詰めていくと最後は人工出産や代理出産の普及に行き着くと私は勝手に想像している。さらにその先には、すべてが「アンドロイド化」する世界じゃないですかね、ゲームの『デトロイト ビカム ヒューマン』のように。「全部アンドロイドに任せればよくない?」みたいな。

(めちゃくちゃ面白いゲームです)



私が抱える女性性に対する違和感の正体

 とは言うものの私には男性になりたいという願望はなく、身体も性自認も女性であることには変わりない。ただ、恵まれた体格や類希な筋力を持つ男性を見ると無性に羨ましく思うことがある。私にそのような力があればどうなっていたのか、という別の世界線を妄想したのは一度や二度だけではない。

 私の毒祖母は都合悪くなると、しばしば「男だから/女だから論」で済まそうとしたのだが、そんな“下等生物”と血が繋がってると思うと、本当に情けなくて虚しい。私が声を荒らげてまで誤りを指摘したところで取り付く島もなかったのに、男性である伯父の軽い恫喝一つには即態度を改めたのだ。その毒祖母の姿を見た私は、開いた口が塞がらなかった。そんな風に今まで何度「男だったら毒祖母を黙らせられるのに」「そもそも私が男だったら母や姉を守れたかもしれない」と思ったことか。

あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままにならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ

中島みゆき『ファイト!』より

 
 そう考えると、毒親/毒家族を持つ女性たちの多くは、「もし自分が男性だったら」と考えた経験があるのではないだろうか。そしてその感情に苛まれると、自分自身の性自認や価値観、生き方にも影響してしまうのではないか。少なくとも私はそうである。先にも述べたが、私は男性になりたい訳でもセクシャルマイノリティに該当する訳でもないが、自分自身が女性であることに“何処か後ろ向きな感情”を持っている。それを煮詰めていくと、男性のようになりたい(あるいは男性のような力が欲しい)が、それは不可能であり、むしろ女性としての弱い部分をまざまざと見せつけられる虚しさと歯がゆさによって、自分自身の存在意義もグラグラと崩れていくのだ。



違和感に気づいてしまった女の末路

 己の女性性の違和感に気がついても一人で生きていく勇気も自信も金もキャリアも気力もなければ、自己愛モラハラクズ野郎と結婚するくらいなら死んだ方がマシだと思えてくるのが正直なところである。

 時代倒錯甚だしいのは十二分に承知しているが、もしも世の男性が「女子供を責任もって守る」という気概を持つような社会だったら、今の私が抱いている違和感とやらは生まれなかったのかもしれない。端的に言ってしまえば、昔のように「男性(父親)が外で働き、女性(母親)が家に居る」という形が社会的にも家族関係的にも安定しているが真実なのかもしれない。(もちろん男女双方のパーソナリティが安定しているという前提だが)

 しかし少なくとも私が毒祖母やかつての母に対して今日も今日とて呪詛を垂れ流しているのを見るに、「男性(父親)が外で働き、女性(母親)が家に居る」という形が最善とはとても言い難い。むしろその様式こそが人間の自己愛を増幅させたのではないか、とも考えられる。例えば自己愛拗らせた男が(おもに物理的に)妻を殴り、殴られた妻は自分の子供を(おもに精神的に)殴り、その子供がまた自分の配偶者や子供を殴るというように。

 
 話を戻す。一人でも生きていけそうにない、かといってクソみたいな野郎とは結婚したくない、そんな「帯に長し襷に短し女」は行き詰まったら死ぬしかないんすかね、決して冗談でなく。

 クソ底辺毒親/毒家族育ちな私なんか自立したキャリアウーマンにも、幸せな既婚女性にも絶対なれないと思うと正直泣けてくる。まあ泣いていても仕方ないのでどうにか折衷案を考えてみると、同じような境遇や背景を持つ人たちとの共同生活やシェアハウスも選択肢の一つだと思う。そういった意味では、各地で同性パートナーシップ制度も認可してほしいと私は考えている。セクシャルマイノリティ該当者のみならず、「諸事情で異性間結婚はできない(しない)が、独身も嫌」という人たちにも需要があるはずだから。

 

 ここまでグダグダと書き連ねたが、いっそのこと私は貝になりたい。それこそ『チェンソーマン』のデンジのように犬になりたいとも思えてくる。どっかの金持ちに飼われてて、私の月給分くらいの飯食わせてもらってるような犬。

 私なんて子孫を残す気も無い、今はパートナーも居ないし作る気もない、社会的に重役でも何でもないから別に死に絶えたところで特に誰も困らない。何ならこんなクソ一族なんて滅亡しろくらい思っている。ただ今後「結婚しない」ないし「子供を産まない」という選択を取ったとしても「逸子さんは結婚しないの?良い人いないの?」とやかましい人は何処にでも生息するからどっちにしても地獄だなと。「この世はほんま地獄の悪魔なんか?ええ?」って感じ。また『チェンソーマン』ネタになってしまって申し訳ない。

 労働も人間関係も毎日の家事炊事も毒祖母の問題も、今後ますます増えるであろう「逸子さんは結婚しないの?良い人いないの?」とやかましい人の相手も全部面倒くさいので早く死にたい、というか叶うなら人間やめて金持ちの飼い犬になりたいマジで(二回目)



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