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毒育ちが考える「器」

(画像はいらすとや様より)

【器とは】
1 物を入れるもの。入れ物。容器。「―に盛る」
2 人物や能力などの大きさ。器量。「人の上に立つ―ではない」
3 道具。器械。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%99%A8/より

「あの人は器が大きい」という表現の真逆は、「器が小さい」あるいは「ケツの穴が小さい」である。私の毒祖母に関して言えば、彼女は間違いなく「器が小さい」し「ケツの穴が小さい」人間である。

 この「器」という概念は、パーソナリティの安定感を指し示すのではないかと最近の私は感じている。パーソナリティの安定感とは転じて自己肯定感や健全な自己愛の強度である。さらに深く踏み込めば、器の強度や質とは自分自身や他者との向き合い方と同義とも言えよう。

 食器、容器、陶磁器、花器には何かをためる(貯める/溜める)機能がある。ところがその器自体に穴が空いていたり底が無かったりしたらどうだろうか。いくら見てくれは立派だとしても傷だらけの器では何もたまらない。

               画像はいらすとや様より

 客観的には素晴らしい結果を残したとしても社会的に安定したとしても、その底無し器が満たされることはない。底無しの器を満たそうと藻掻いては、空っぽな器に落胆して心身ともに消耗していくのだ。かようにしてたちまち身の丈を見失うと、その先に待ってるのは過剰な執着と依存だけである。

 よく存じ上げないエライ大人たちに表彰されても成績トップになっても親愛なる友人や恋人ができても、かつての私は常に名状しがたい欠落感に苛まれていた。ある種欲求不満に近いその感覚を埋めるべく努力すれど、私の器には一つも蓄積されなかった。その空の器を見て、自分の価値を低く値踏みしてしまうことの辛さと言ったら。

「傍からすると大層素晴らしい器だが、その実は“底無し器”の持ち主」こそがこの世で一番生きづらいんだと、私は勝手に解釈してる。きらびやかな世界で活躍しているあの人も、非常に人望が厚く成績も優秀な職場の先輩も、誰からも慕われていて模範生のような学生だって見てくれこそ誰もが羨む器を有しているかもしれないが、その本質とやらは当人や身内にしか知りえないからだ。

 

 この“底無し器”になってしまう主な原因とは、言わずもがな幼い頃の家庭環境と親子/家族問題であろう。毒親/毒家族による条件付きの愛情、過干渉あるいは無関心、その他子の自尊心を著しく傷つける言動が、「ありのままの自分を受け入れられる頑丈な器」の形成を阻害するからだ。それは同時に「自分なんて何も価値が無い」という偏見を植えつけることになる。おそらく過去の私が欠落感に囚われていたのは、その偏見のせいであろう。

 この安全基地の不在というものが、柔く脆い器、最悪は“底無しの器”の原因とも考えられる。逆説的にはなるが、毒親/毒家族問題に悩まされている人の多くは“底無し器”の持ち主だと私は推測している。つまり毒親/毒家族問題における根本的な解決の第一歩は、その器を修理することとなる。いわゆる解毒(行為)と呼ばれる一連の流れは、その器を直すこと、あるいは一から作り直すことなのかもしれない。

 仮に解毒(行為)をせずに底無し器を放置したらいったいどうなのるのか。まっとうな努力もせずに他人からエネルギーを奪い周囲を傷つけることで“底無しの器”を満たそうとするが、それで器も自身の心も満たされるはずがないのは先に述べた通りだ。

 このような己の器と向き合わない(向き合えない)エナジーバンパイアこそが毒親/毒家族に、彼らの子供は毒子供になってしまうのではないだろうか。これはあくまで正論の一つに過ぎないが、器つまり自分自身とそのパーソナリティと向き合った上でしかるべき対応をしなければ、ただ同じことを繰り返してしまうのだ。

 

 もっとも一人間の本質を形成するパーソナリティである器が一朝一夕で直るはずがないということは、私自身も重々肝に銘じてきたいと思う。それこそ焦って付け焼刃の処置を施しても瞬く間に崩れてしまうからだ。一つずつ、一段階ごとにゆっくりと時間をかけて丁寧に直してく、あるいは作り直していくほかない。

 私自身も毒祖母と離れて、ようやく少しずつ己の器と向き合えている気がするのだ。ひとたび自分の思い通りにいかなければ、親や家族の期待に応えられないと、すぐに決壊を起こしていた器も今はだいぶ落ち着ているように感じる。それは自分自身の改善もあるが、それ以上に母や姉の存在や支えがあってのことである。

 そもそも器とは大きさよりも丈夫さの方が大切だと、今の私は考えている。私のちっぽけで脆くて人様に見せられないような器は、毎日旨い飯が食えて風呂に入れて温かい布団で眠ることができれば、まあまあ満たされるからだ。微々たる幸福でもすぐに満ち満ちて充足感を味わえるのは、小さな器のメリットである。掃除をすればほどほどに気持ちがいいし、仕事で感謝されたらそりゃあ嬉しい。母と姉と笑顔で食卓を囲めれば、それでいいと思える。このように気持ちが動くたびに、自分の器に何かがたまっていくのを最近はしかと感じている。

 繰り返しになって恐縮だが、己の器が脆いと認識することもそれを修復し始めることも器が(完全に)直ることも、「ローマは一日にして成らず」である。今はせめて毒祖母が息絶えるまで、私はのらりくらりと自分自身の器と向き合っていこうという所存である。あちこちが傷だらけで不格好な器ではあるが、いつかそれ自体を愛でられるようになりたい。決して他人を助けられるほどの立派な大器ではないが、自分自身と家族を生かせるくらいの器を私は長く大切にしていきたい。それこそが真の意味の健全な自己愛、自己肯定感なのではないだろうか。

 

 そう言えば私の毒祖母こそ「傍からすると大層素晴らしい器だが、その実は“底無し器”の持ち主」だったのではなかろうか。冒頭で述べた通りに身内の私としては彼女の器が素晴らしいなんて到底思えないが、外面と口だけは巧みだったので騙されていた人は想像以上に多かったのかもしれない。

 とにもかくにも他人はおろか自分ですら満たそうとも満たすことができない傷物の器を、毒祖母は今もなおしかとその手に抱いている。その姿を哀れむとともに、一抹の憐憫すら私は覚えるのであった。



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