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『ホットロード』から『東京卍リベンジャーズ』暴走族とマンガの関係

作品というのは、それが生まれてくる時代に規定される。16世紀の戦国時代を描いても1972年の連合赤軍事件を描いても、現代に作られた作品である限り、同時代的な意味がそこに存在している。1986年12月に連載がスタートしたこの『ホットロード』もその例外ではない。

マンガに暴走族が描かれた時代とは

1974年(S49)から2013年(H25)までの警察白書から、暴走族の「い集・走行行為」への参加人数のデータを経年でまとめてみた。1978年(S53)12月に道路交通法が改正され、共同危険行為の禁止規定が新設されたのをきっかけに、「い集・走行行為」への参加人数は、1979年(S54)に急減、1980年(S55)に再度増加するが、以後長期に渡って減少を続けることになる。ピークは規制前の1978年(S53)であった。

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暴走族やヤンキーを取り扱ったマンガは、この1978年から1980年の暴走族ムーブメントのピークに、10代で出会ってしまった若者が、20歳を過ぎてプロの漫画家として描き始めるという形で立ち上がっている。主要なタイトルと作家の年齢は次のようになる。

・1982年『湘南爆走族』著者:吉田聡(1960年生)78年当時18歳

・1983年『BE-BOP-HIGHSCHOOL』著者:きうちかずひろ(1960年生)78年当時18歳

・1985年『ホットロード』著者:紡木たく(1964年生)78年当時14歳

・1988年『ろくでなしBLUES』著者:森田まさのり(1966年生)78年当時12歳

・1990年『湘南純愛組!』著者:藤沢とおる(1967年生)78年当時11歳

・1990年『カメレオン』著者:加瀬あつし(1964年生)78年当時14歳

・1991年『疾風伝説 特攻の拓』原作:佐木飛朗斗(1962年生)78年当時16歳 漫画:所十三(1961年生)78年当時17歳

・2017年『東京卍リベンジャーズ』著者:和久井健(生年不明)

マンガとしての暴走族・ヤンキージャンルのピークは間違いなく1985年から1990年の5年間だろう。1985年から1988年の間に『BE-BOP-HIGHSCHOOL』の映画が6本作られ大ヒットした。1987年には『湘南爆走族』が完結して映画化されている。『ホットロード』も1985年12月より集英社の別冊マーガレットで連載が開始された。連載期間はわずか1年と5ヶ月、1987年4月には連載は終了したが、4巻まで発行された単行本は700万部売れたと言われている。

『ホットロード』はオーソドックスな「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語。ヒロインの宮市和希(かずき)は幼い頃に父親を亡くし、母親とその不倫相手を憎みながら生きている。もうひとりの主人公は、和希のパートナーの春山洋志(ひろし)。彼の両親は離婚していて、新しい父親と実母の間にできた弟に複雑な感情を持って暮らしている。家庭に居場所のない春山は暴走族で特攻隊として活躍し、和希が暴走族の集会に参加するようになるとふたりは恋におちる。暴走族のリーダーになることになった春山は和希との恋愛と組織のリーダーとしての役割の間で激しく葛藤するようになっていく。そんなストーリーだ。

4巻で700万部、つまり1巻あたり175万部を売るということは別冊マーガレットのターゲットの中高生だけでなく、世間一般に受け入れられたと考えてもいいと思う。では、『ホットロード』がそれだけ多くの人を引きつけた魅力とは何だったのだろうか。

2021年から見た『ホットロード』の影響範囲

現在からみると、この『ホットロード』という作品は、マンガだけでなくJ-POPや小説などにも影響を広げている、一種の原点ともいえる作品になっている。作者やアーティスト自身が『ホットロード』に直接インスパイアされていることを意識しているかどうかは別として、代表的なものをあげれば、『NANA』などのマンガ、浜崎あゆみや西野カナなどの歌詞はこの作品の影響圏にあるのではないか。

現在の視点から過去を語る「トラウマ」語り

『ホットロード』では「物語のなかにいる過去の自分」に対して「物語の完結時点にいる現在の自分」がメタ視点で語ることで、失われてしまった過去に対する惜別の感情を強く表現している。現在の自分には、過去を変えることはできない。過去の自分をふり返って、そこにある屈託の無い毎日、友だちとの関係、うまくいかなかった親子関係など、失ってしまった感情や、心ならず壊してしまった人間関係に現在から手を伸ばせたらと考えることは誰にでもある。こうした感情がストーリーの冒頭でメタ視点で語られ、読者を物語の中に引きこんでいく。

『NANA』には、こうした『ホットロード』の手法にインスパイアされたと思われる場面がいくつかある。一例を下に示しておくので参考にして欲しい。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第1巻

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©矢沢あい/集英社『NANA -ナナ-』第8巻

『ホットロード』が始めたこの回想的なモノローグの手法は、現在では数々のマンガやJ-POPで使われるようになっている。

固有名詞がない世界

『ホットロード』のレビューを書くために久しぶりに単行本を読んで一番驚いたのが、この「固有名詞」の少なさだった。例えば『BE-BOP-HIGHSCHOOL』などでは、主人公が通う高校名や対立する高校名、そこに通う同級生や敵対高校の不良グループのメンバーの名前がかなりたくさん出てくる。『湘南爆走族』ではどのキャラクターが、どんなバイクに乗っているかも描き分けられている。

一方の『ホットロード』では、主人公の和希や春山の母親の名前も出てこないし、父親にいたっては姿形さえ出てこない。対立するグループの漠統(ばくとう)のメンバーも名前がストーリーの中に出てこない。バイクに関して言えば、春山が乗る車種が固有名詞で登場するだけだ。

ただ、こうして物語をシンプルにすると、「固有名詞」で語られるディティールが強烈に読者に印象付けられる。その「固有名詞」が、「CB400F(4フォア)」と「タクティス」になる。

1980年代に「CB400F」は暴走族には一番の人気車種だった。このバイクを先輩から受け取るかどうかと、リーダーを引き受けるかどうかを絡めてストーリーは展開していく。春山の属する暴走族では、「CB400F」は代々のリーダーに受け継がれることになっており、春山が受け取るまでに紆余曲折がある。物語の中で重要な意味を持つ「固有名詞」だ。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第2巻

もうひとつの「タクティス」という「固有名詞」は、当時の資生堂の「タクティクス」という男性用コロンから引用してネーミングしていると言われている。別冊マーガレットは中高生をターゲットとしていたため、直接的な性的表現は『ホットロード』にはないのだが、この男性用の「タクティス」の香りを女性がまとっている描写が何箇所かある。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第1巻

読者にいろいろな暗示をするおもしろい小道具の使い方だと思う。中高生向けの雑誌という制約が生み出した性的な表現の工夫だろう。ちなみに資生堂のタクティクスは日本テレビの深夜番組「11PM」などで、番組内CMを流し、それを宍戸錠が担当したりしていて、どちらかと言えば大人向けのコロンというイメージがあった。物語のなかでも、ちょっと背伸びした若者を表現するための小道具として、とても上手に使われていると思う。

シンプルな背景、クールな表情の主人公、詩的なモノローグ

以前、マンガHONZのインタビューで小池一夫がキャラクターについて語っている。

いつも若い人に教えるのは、マンガは出来るだけ短い言葉でセリフなどを表現する事が原点であるということ。モノローグと言った心の声は、絵で表現するというものと教えてきました。もし主人公の内面を文字にするのであれば、短く印象的なセリフにするか、主人公以外に喋らせるなどしないと、主人公のキャラクターが起っていかないんです。

実は『ホットロード』では、このまったく逆の表現がよくみられる。感情を表情に余り出さず、背景も読者にかなり白を感じさせるほどシンプルだ。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第1巻

こうした枠線が少なく、余白の多い画面に対して、詩のようなモノローグがかぶさっていく。読みながら余白に吸い込まれるような感覚になる。少年漫画ではなかなか味わえない表現で、『ホットロード』ならではの魅力の一つだろう。

1978年の「若者の革命」と世代間対立

この時代のマンガの特徴でもあるが『ホットロード』では異常なまでに大人たちの存在感がない。和希の父親は亡くなっていて物語に出てこないし、母親は不倫していて、自分の屈託を娘にぶつけるような存在だ。春山の両親は離婚していて、実母が再婚した新しい父親は一度も登場しない。しかも、和希と春山の母親には、物語のなかで名前さえ与えられていない。和希の母親は物語が終わる直前に不倫相手の鈴木君に、自分がいかに子供に対して無力だったかを語っている。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第4巻

和希の通う学校では、最初の担任の鈴木先生は心配するだけで、胃薬ばかり飲んでいて、生徒に対して全く無力な存在として描かれている。一方、その後任の高津先生は、大人の読者の目で見て、筋が通ったことを言うことができるキャラクターとして描かれている。その高津先生が、自分の弟が15歳のときにバイクに乗っていて亡くなったことを話し、和希に自分や仲間の命を大切にしろと説く場面がある。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第3巻

この場面での先生はいいことを言っていると思う。ところが、その言葉がまったく和希に響かない。逆にいいことを言っているだけに、大人は、その「届かなさ」に絶望的になる。大きな断絶が、大人たちの世代(1940年代生まれくらいか)と、和希たちの世代(1970年代生まれ)の間に横たわっていることを描こうとしたのではないだろうか。

実は、暴走族の暴動というのは1969年に名古屋で初めて発生して、連合赤軍事件の起こった1972年から頻発するようになる。連合赤軍事件の影響で都市部の大学生たちの社会に対する反抗的な運動は退潮していくが、地方では若者たちは、より単純な「暴走」という行為で反抗を表現するようになる。最初は富山市、その後、小松、金沢、岡山、福山、広島、高知などの地方都市に、暴走族とやじうまによる暴動が広がっていった。1978年に延べ30万人が参加してピークを迎える暴走行為等の動きはこうして始まっていたのである。社会に対する若者の反抗の形態が、都市部での学生運動から、地方での暴走族という形をとって拡大していった。

『ホットロード』に登場する大人たちの主人公達への影響力の無さを見るとき、作者の紡木たくが、この主人公達の世代をなんらかの「革命世代」と考えているのではないかと思えてくる。新しい価値観によって革命を起こそうとしている世代にとっては、「若さ」こそが価値だという残酷な現実を見せつけられる。ただ、1978年の「革命」は紡木たくがこの作品を書いている1985年~1987年には何も起こさなかったことがわかっていた。そのことを知っているからこそ、第一巻の冒頭の「もう一度 あの頃の あの子たちに 逢いたい」というモノローグが読者に切実に響くのだろう。

少女マンガで描かれた「外傷性の絆」

「外傷性の絆」という概念がある。これは例えば、家庭内暴力や虐待の加害者と被害者とのあいだに生じる強い感情的な結びつきを指す言葉だ。自分を痛めつける相手に理不尽な愛情を抱いてしまうこと。人質が強盗犯に愛情を抱いてしまうということを「ストックホルム症候群」と呼ぶが、これも「外傷性の絆」に近い現象だ。

斎藤環 著『承認をめぐる病』より

『ホットロード』が単なる甘いラブロマンスではなく、ストーリーのところどころにトゲのようなものがあると感じられるのは、このようなコミュニケーション不全をリアルに描いていることが大きな要因になっている。

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©紡木たく/集英社『ホットロード』第2巻

こうした場面で和希や春山は乱暴な言葉を使うが、逆に物語全体がよりリアルに、美しくなっている。こうした会話のリアリティも『ホットロード』の魅力のひとつになっている。

『ホットロード』が描かなかったもの

私は『ホットロード』が描かなかったものが二つあると思っている。

ひとつは、ヤンキー文化の特徴である、ネタとしてのファッションのバッドセンスである。暴走族ムーブメントのピーク、1979年12月に発行された、『暴走列島 '80 全日本暴走族グラフィティ』という本がある。この本の中で、暴走族のファッションを扱っている章がある。

彼らのファッションの要素で大事な事が一点ある。「適当にダサい」(あえて適語をさがせば、「かっこ悪い」)ということだ。

グループ フルスロットル編『暴走列島 '80 全日本暴走族グラフィティ』より

このように、ムーブメントの真っ只中でさえ「かっこ悪い」という評価を受けていた暴走族のファッションが競争によってインフレしていく現象を斎藤環が分析している。

僕は以前、ガテン系労働者のファッションセンスが、同僚や取引先(やっぱりガテン系)に舐められないようにという口実で、どんどん過激化していくというエピソードを紹介した。おそらくここにもヤンキーの一つの本質がある。互いに「舐められない」ことを目指してキテレツ要素をどんどんため込んでいった結果、あのようなバッドセンスが成立するということ。

斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』より

それでは、なぜこうしたヤンキー文化の特徴的なファッションを作者は描かないことを選んだのだろうか。ひとつには、少女漫画という制約から、当時でも「適当にダサい」といわれていたヤンキーファッションを意図的に排除したということもあるだろう。

多分、それ以上に重要なもうひとつの理由は、『ホットロード』という作品の特徴を考えてみると浮かび上がってくる。それは、描かないことによって読者が想像できる余白を残そうとしていること。読者の知性に期待して、できるだけ多くの余白を残す。ホワイトの多い背景、クールな表情の登場人物たちもそうした印象を与える。

あえて画面全体をコントロールしたいという作家としての欲望を捨てさった先に生まれた、水墨画のようなマンガの傑作がこの『ホットロード』ではないだろうか。

もうひとつ描かれていないのは、「和希と春山の日常」である。春山が暴走族のリーダーとして、敵対するグループの待っているなかへ鉄パイプをもって殴りこんでいくような「祝祭」の日々が終われば、青春というモラトリアムは終了する。宮崎駿が吉田聡の『湘南爆走族』についてこんな文章を書いている。

ぼくの前には広い舗装道路が、それも大渋滞した道路しかない。横道に踏み込んでも、そこはタウンマップにとっくに登録済みの看板と店だらけ。立ち止まれば後から押され、こずかれ、ズルズル進んでしまう。損のないよう決められた道を進むしかない、そう感じている若者がなんと多いのだろう。

吉田聡の作品は、その世相に対する一貫した意義申し立てである。「湘南爆走族」はその傑作であるが、まだ世間に出る前の囲われた学園生活での大騒ぎという部分を持っていた。主人公の江口達が卒業した後、どう生きていくのか… 印象的なラストシーンと共にその想いが自分の中にずっと残っていた。

宮崎駿『バードマンラリー 吉田聡傑作短編集』あとがきより

宮崎駿のいう「囲われた学園生活」というモラトリアムが消えてしまえば、ファンタジーとしての暴走族マンガも成立しなくなる。「暴走」する時間がなく、生活のためにバイトしなければ、結婚のために貯金しなければ、となれば、どうしても日常生活を描かざるを得なくなる。余白の多い、詩的な空間に和希と春山をおいておくことは出来なくなるだろう。そういった意味では、春山はすでに学校に行かずにガソリンスタンドでバイトしているし、『BE-BOP-HIGHSCHOOL』のように20年近く「囲われた学園生活」というモラトリアムを続けることは最初から不可能な構造になっていた。

物語の完結の間際に春山の「鑑別所内 読書感想文」がでてくる。これで読者は「祝祭」の日々から、これからずっと続く日常に急に引き戻される。

人に迷わくかけたのは
すげ~悪いと思ってる
自分の体がこーなったのは
自分でやったんだからしょーがねー
その分これから
やるしかない
世の中 そんな
甘くねーけど

©紡木たく/集英社『ホットロード』第4巻

こうして『ホットロード』は4巻で700万部を売っていた連載を終わらせている。和希と春山がこの後ずっとつきあい続けて、家庭を持つようになるとすれば、『ホットロード』の恋愛ストーリーが汚れてしまう。ここで終わらせた作者の潔さがこの物語を永遠にしている。


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