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再掲載:短編小説「教育的暴力」

 

 

 冬の訪れを強く感じるのは朝である。青年は出勤後、仕事着に着替える前の日課である玄関掃除をしながら、そんなことを考えていた。まだ日が昇って間もない時間帯の屋外は、時間が静止した様にあらゆるものの動きが感じられない。静止の対象は内面的な思考までには及ばないが、辺りを包む空気などには影響を与える。静止してある空気をかき分け歩くから、空気が割れ、鋭い切り口が直接触れている手や首に突き刺さる。子供のころ昆虫を探すため山道を歩き、背丈ほどある草をかき分けたあの感覚である。素手で勢いよく触れるからいつの間にか傷がついている。




 青年は手に持っていた竹箒をいったん地面に置き、少しの傷もない両の手をこすり合わせた。少しでも空想に近いものに考えを巡らせたほうが、無心で作業が進む。しかし、時折鮮明に蘇る過去の思い出にどうしても現在の自分が引っ張られてしまうことがある。青年は手を温めながら竹箒はそのままにして歩き出した。敷地内にある郵便受けに新聞を取りに行くことにしたのだ。新聞を置くために一度室内にも入れる。その頃には指先が温まるだろうと考えての行動であった。郵便受けには目当ての新聞と他に封筒が一つ入っていた。封筒には宛名及び差出人の名前はなく、ただ汚い字で〝暴力を許しません。訴えます〟とだけ書かれていた。不穏な封筒であった。




 「教育としての意味合いの打突であり、決して一個人を標的にした暴力ではありませんでした」そう言い終わると、還暦近い上司が深々と2名しかいない職員に向かって頭を下げた。毛髪はなく、頭を下げることで卵型の輪郭がより強調されたように青年は感じた。上司は顔を上げると、幾重にも折り重なった奉書紙ほうしょしを上着から取り出した。そして神妙な面持ちで職員を見渡し奉書紙の謝罪文を読み始めた。昨日の朝届いた封筒をうけて、今後訪れるであろうと想定した謝罪会見の練習にしては、いささか熱を入れすぎており、少しばかりふざけているようにも青年の目には映っていた。




 「こんな形でどうだろうか?」上司は緊張の為か軽く額に汗をかき、目の前のパイプ椅子に座る2名の職員へ問いかけた。「悪くなかったと私は思いますよ」いつも上司の太鼓持ちをする青年の同僚が、軽い拍手をしながら答えた。時刻は午後の6時。本日は晩の出向などもなく、業務終了後に作業着から着替え、皆で講堂に集まり昨日届いた封筒の対策を行っていた。




 「あの、やはり私は、昨日から話す通り、まずは警察に——」「警察などに行って何を話す気だ?」青年の意見は最後まで話しきる前に、同僚により差し止められた。「確かめるためです。調べてもらいましょうよ、あの手紙の差出人くらい、警察ならすぐにわかると思いますよ」青年は少しの苛立ちのせいか早口で答えた。昨日届いた封筒の中には短い手紙が入っており、素人目にもわかる封筒にあった字と同じ筆跡で、こう書かれていた。




 〝暴力のときの写真と動画がある。消してほしかったら100万円よこせ。明日の朝までにこのポストに100万円入れておけ。なかったら、警察に言う〟

 

 

 上司の意向によって、犯人が持っている写真や動画がどのようなものかわからない以上、100万円をポストに入れるのは勿論、業務への支障を懸念し警察などへの通報も行わないことにした。しかし、もし職員の誰かが手紙のようなことをしており、世間から大バッシングを受けるようなことがあれば……。そんなことを見越してか今現在、青年の目から見ると、上司は何に対して謝っているかわからない謝罪会見の練習を、必死に行っていた。



 

 手紙の文面から推察するに犯人は幼いような印象を受ける。しかし、それが狙いかもしれない。えて幼さを装うことにより、手紙の向こうにいる確かな犯人の存在を、虚像にすり替える狙いがあるのかもしれない。そんなことを考えると、青年は手紙の犯人が恐ろしく思えてならない。でも、もし……。一つだけ引っかかる考えが青年の頭の隅から離れず、上司の謝罪会見の練習中もそのことについて空想を巡らせてしまっていた。




 「お前が昨日からいうその意見は、既に却下しただろう。実りのある話をしないと前には進めないんだよ、馬鹿が」同僚の普段の口の悪さが青年を空想の世界から現実に引き戻す。「……馬鹿は貴方だ、いつもいつも私を見下しやがって。私は正しいことをしようとしているのになぜ止めるのですか?」「二人ともよさないか。そして少し私の話を聞きなさい」青年とその同僚が今にもパイプ椅子から立ち上がり、喧嘩を始めそうな勢いを上司が小さな声でなだめた。声量こそは小さかったが、普段とは違う上司の雰囲気に二人は飲まれてしまった。

 

 

 

 「今の世の中、多くの物事が昔ながらのやり方ではままならない。いつの間にか時代に取り残されていたのだろう。私の勉強不足だ。そして今後、君たちには苦労をかけるかもしれん。すまん」上司は謝る理由やその対象すらいない中、頭を下げ謝罪した。その姿に青年は困惑し、上司に駆け寄ると肩を抱き話し始めた。「何をおっしゃるんですか?私たちは何も間違ったことはしていませんよ。私思うんですが、もしかしたらこの手紙は——」青年の話の途中で講堂のドアが勢いよく開き、急な来訪者が2名現れた。青年の話はまた言い終えることができず、遮られる形となってしまった。急な来訪者である、警察官たちによって。

 

 

 「はい、不審な封筒が届けられたのはこちらの神社のこの郵便受けで間違いございません」青年の上司である和尚は、警察の取り調べに対し真摯に受け答えをしていた。現場確認のためなのか、郵便受けまで警察官を案内しその場で話し込むような形になってしまった。




 先ほど講堂にやってきた警察官二名の影に隠れるように連れてこられた小学生男児は、泣きながら和尚に謝り、今は講堂の中で同僚が出したお茶を飲んでいる。「では、手紙にあった写真や動画というのは、座禅の時の物なのですね?」和尚が警察官の1人に聞いた。「そうです。どうやら春に行われた座禅の体験学習の際の写真と、同行した教師が撮影した動画を指していたようです。学校ではそれらの写真や動画を保護者に公開しておりまして、その中に和尚さんが座禅中の児童を警策けいさくで叩いた瞬間を撮った写真や動画があり、それらを使って犯行を計画したようです」青年は、警察官がいう〝犯行〟という言葉の重さと、先ほどまで泣きじゃくっていた少年との差を滑稽に感じながら聞いていた。




 やはり、青年が先ほど和尚に話そうとしていた内容と、今回の事件の全体像は大体当たっていた。今では多くの神社が警策を用いての座禅など、外人向けのパフォーマンス以外で行うことは稀であり、それを指して暴力と言われているのではないかと青年はずっと考えていた。「それじゃあ彼は100万円が貰えなかった腹いせにそれらを警察に持って行ったのですね?」今度は青年が警察官に質問した。自分の予想の答え合わせをするために。しかし、警察官の返答は青年が予想していなかったものであった。




 「いいえ、100万円を貰ってしまったと、少年が自首してきたのです」

 

 

 「和尚様、なぜ私たちに黙って100万円をポストに入れておいたんのですか?」青年は遠くの駐車場を目指し歩く警察官と少年を見守りながら、左横にいる和尚に聞いた。同僚は少年の飲んだお茶の片づけの為かまだ戻らない。「あの手紙を書いた人はきっとそのお金を手にした瞬間に、改心してくれるだろうと信じたからですよ」少年の改心を見届け安心したためか、和尚は落ち着き払った口調で答えた。




 昨日の朝から和尚について回っていた緊張感が消えている。どうやら普段の調子を取り戻したようである。時刻は午後の8時過ぎ、冬の寒さがまた空気を静止させる。遠くでパトカーが走り出すのを見送ると、和尚と青年も片づけのため一旦講堂へ戻ることにした。2人仲良く横並びで歩き出したが、すぐに和尚の足が止まった。青年もすぐ足を止め振り返ると和尚が口を開いた。

 

 

 

 「あなた、あの警察官たちが帰る間際に『人を救うためか知りませんが、身に覚えがない脅しなら今後は是非警察を頼ってください』という言葉を受けてちらりと〝私〟を見ましたね」そう和尚は青年に告げると、いつものように教育という名の鉄拳に怒号をつけ青年の左頬に刻んだ。青年は勢いよく倒れ、殴られた左頬をさすりながら立ち上がると、和尚に深いお辞儀をし「頂戴いたしました」と、答えた。青年は昨日の朝から不在であった和尚にようやく再会できたような心持となり、心からの笑顔を和尚に向けた。冬の季節はまだ始まったばかりであり、春はまだまだ遠い。




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