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短編小説「老夫婦」



 和室の座卓テーブルに広がる朝食の残りを片付けながら、妻は夫に聞いた。



「貴方のよく私にいう言葉って、世間的にはモラハラっていうんですって、知っていましたか?」妻は夫がどんな表情をするか気になったが、見ることができなかった。夫は座卓テーブルの端で、日課となっている新聞のスクラップをする手を止め妻に言った。「モラハラって言葉は知っているが、私がよくいう言葉ってところがわからない。そんな言葉を君にいうかい?」夫が嫌味で聞いているのではないのが妻にはわかった。



「よく言うじゃないですか、『老けたね』って。しかも貴方はそれを嬉しそうに」妻の口元は笑っていた。もう何年も言われ続けてきた夫からの言葉を、頭の中で反芻し自然に出た笑顔だった。




「ああ、なるほど。確かに世間的にはモラハラか、なら君は私からその言葉言われるのは嫌——」
「いいえ、勿論うれしいわ」妻は夫の質問を聞き終わる前に答えた。夫から言われる〝老けたね〟という言葉は妻にとって何年も待ち望んだ未来を言い表すピッタリの言葉だった。



 学生のころから憧れだった夫。字がきれいで、少しものぐさ。黒板へ文字を書いた後、チョークが付いたままの指で後ろ髪をさわり、フケをつけているような姿で廊下を歩いていたこともあった。



 結婚してからの生活は、年齢差なんて気にしなかったと言えば噓になる。妻は夫と共に道を歩いても恥ずかしくないようにと、大人びた服装をよく選んだ。月日を重ね、年月を待ちわびた。少しでも早く夫の隣を歩いても恥ずかしくない姿になりたかった。そして——



「貴方は若いわ」もうチョークで髪を白くしても気付かれない夫を、優しく見つめ妻が言った。




「君は老けたな」夫は妻が喜ぶ思ってもいない嘘を、今日もまた気恥ずかしそうに答えた。昔の教え子の考えていることなんて、夫には手に取るようにわかった。


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