【長崎】第1回 江戸時代、世界への窓口だった?!

久しぶりの投稿です。これから、各地の観光地(というよりは、都市の紹介に近いかも)を紹介していきます。初回は【長崎】です。全3回を通して、長崎の歴史について考えていきます。第1回は、「江戸時代の長崎」です。(下の写真は、現在の長崎市。)

画像3

〈出島での貿易と隠れキリシタン〉

長崎は江戸幕府の鎖国政策においても、中国・オランダとの貿易が認められた土地です。江戸幕府の鎖国政策、常にその舞台であり続けた長崎の歴史について考えていきます。


江戸幕府は1600年に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、1603年に開きました。250年以上続いた安定政権です。その中でも、今回の「鎖国」(海外との貿易の制限)は初代の家康、2代秀忠、3代家光の頃に進められましたです。彼らがどのような思い(というよりは思惑?)で鎖国を進めていったのかを考えます。


まず、初代の家康はもともと貿易による利益を求めて、海外との貿易を奨励していました。具体的には、「朱印状」という幕府公認の貿易証明書のようなものを発行し、東南アジアなどでの貿易を進めていました。この頃、既に日本と貿易を行っていたポルトガルやスペインに加えて、オランダやイギリスが平戸(長崎県平戸市)に商館をつくり、日本との貿易を行うようになりました。(古くから海外との交流のあった長崎には、早くから砂糖が伝わり、カステラなどの菓子文化が発展した。)

画像3

しかし、貿易が順調にいったわけではありません。上記の国は「キリスト教」の国です。キリスト教という宗教は、簡単に言うと「神の前では皆平等である」という思想です。日本の大名の中にもキリシタン大名と呼ばれる人々が出てきて、貿易による人の行き来を通して、日本にもキリスト教が浸透していきます。このことが、江戸幕府にとっては問題だったのです。「神の前では皆平等のキリスト教」と「将軍をトップに主従関係が明確な江戸幕府の支配の仕組み」、これらが矛盾していると考えられるようになっていきます。将軍の中にも、「キリスト教を信仰する彼らは、自分に従わなくなるのではないか」という不安があったかもしれません。

その結果、江戸幕府はキリスト教の布教を制限する方向へ舵を切ることになります。1612年には直轄領(幕府が直接支配する土地、長崎も含まれます)でのキリスト教禁止令を出し、江戸・大坂(当時はこの表記です)・京都・長崎の教会を破壊し、信者を迫害します。1613年には、キリスト教禁止令を全国へと広げます。その過程で、多くのキリシタン(キリスト教信者)が弾圧され、殉教(命を絶つ)する人々も現れます。


次に、2代将軍秀忠はこれまで日本の各地で行っていた外国との貿易を、平戸と長崎の2つに制限します。(この時点で、日本と貿易を行っている主な国は中国の他に、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダです。)この政策には、幕府が外国との貿易による利益を独占するというねらいもあったようです。その後、1624年にはスペイン船の来航を禁止しました。一方イギリスは、アジアとの貿易のライバルであるオランダの不動の地位を覆すことができないと判断し、自主的に日本との貿易から撤退します。(これで、中国とポルトガル・オランダが残ります)。


最後に、3代将軍家光はいよいよ鎖国を完成させていきます。1635年には、日本人の海外渡航・海外にいる日本人の帰国を禁止します。翌年には、埋め立て地をつくり、ここを「出島」(長崎県長崎市)として、ポルトガル人との貿易の場所にします。

しかしここで、キリシタンから思わぬ反乱があります。1629年から幕府は「絵踏」(イエスやマリアの画像を踏ませる)を実施して、信者を見つけようとしていましたが、これらの弾圧への反発が、1637年の島原・天草一揆としてあらわれます。キリスト教信者は城に立てこもり、幕府への反乱の意志をしましますが、最終的には幕府の勝利となりました。この乱の結果、キリスト教信者への取り締まりは強化され、彼らは「隠れキリシタン」として身を隠しながら密かに信仰を継続していきます。(これらのキリシタンの迫害の歴史や信仰が継続されたことの希少性が評価され、2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されました。長崎市にある「大浦天主堂」が有名です。)乱の後、1639年にポルトガル船の来航禁止、1941年には平戸の商館にいたオランダ人を出島へ移動させます。その結果、出島ではオランダと中国とのみ、貿易を行うことができました。

このようにして、鎖国政策が行われる中でも、出島では制限の中で海外との貿易が行われることとなります。(当時の出島の様子を見ることができる場所として、国史跡「出島和蘭(オランダ)商館跡」がありますが、2017年11月に「出島表門橋」という名前で、長崎から出島へと続く橋が復元されました。出島の橋は明治時代に取り壊されたため、約130年ぶりに橋が架かったことになります。下の写真は、橋が架かる出島の様子です。)

画像3

江戸時代には、海外との窓口であった長崎、今回の話の中で出てきた、「大浦天主堂」「出島」を訪れ、歴史を感じてみてはどうでしょうか。


【長崎】の第1回は、「江戸時代の長崎」でした。この投稿はTwitterにも連動して投稿しています。Twitterのコメント欄にこのnoteの感想を書いたり、今回登場した観光地に行ったことがある方は写真や思い出などを書いたりして、より観光地や都市の魅力を発信できる投稿にしたいと思います。コメントお待ちしています~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?