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藤原基央はあの頃疲れていたのか



虹を待つ人

言えないままの痛みがそっと寄り添って歌う
使い古した感情は壊れたって動く


ray

あんまり泣かなくなっても ごまかして笑ってくよ


ラストワン

大声で泣き出したいよ 慣れてなくてうまく出来ないよ


morning glow

あんなに夢中で追いかけてたのが嘘みたいだけど本当の今
大切にしてきたけど実はただそう思い込んでいただけ
あまりにもはっきり解ってしまったね
もう要らなくなってしまったね


ゼロ

終わりまであなたといたいもう それ以外確かな思いがない


トーチ

震える足でも進めるように
自動的に空が転がるように
次々襲いくる普通の日々
飲み込まれないでどうか繋いでいけるように


Smile

大事な人が大事だったこと 言いたかったこと 言えなかったこと


firefly

諦めなければきっとってどこかで聞いた通りに続けていたら
やめなきゃいけない時がきた


White note

大声で叫びたい 叫びたいことがわかんない
へろへろ疲労だけが確かなもの


(please)forgive

最近は別に元気じゃない  それが平常で不満もない
生活に変化は求めない  現実と漫画は重ねない


グッドラック

忘れたらそのままで魂の望む方へ
僕もそうするからさ ちょっと時間かかりそうだけど


友達の唄

今私が泣いていても  あなたの記憶の中では
どうかあなたと同じ笑顔で時々でいいから思い出してね




休日くたくたになりながら、ただバンプを聴いていた。

その時は『サザンクロス』が流れていた。
四月に行った長野のライブの帰り道「RAY(『サザンクロス』が入っているアルバムの名前)の中でいちばん好きなのはこの曲かも」と復習しながら帰った曲だ。


口先だけで繋いだ知らない手  それでも離さないひとりは怖い
疲れた勢いか色んなことが奇跡みたいに思えてどうしようもない 
少しずつ感じなくなっていく悔しかった帰り道忘れていく
そうしなきゃ駄目な時がくる それでもそう出来ないこともある

サザンクロス / BUMP OF CHICKEN


特に二番の歌詞に感銘を受ける。ちょうど「疲れた勢いか色んなことが奇跡みたいに思えてどうしようもない」毎日を送っていた。
こんなにいい歌だったかな。
初めて聞いた頃は埋もれていたのに何年か経ってからとてつもなく好きになる歌、定期的にあるからおもしろい。

RAYのアルバムってどんな感じだったっけ。サブスクを登録してから特にアルバムごとに聞く習慣はなくなっていた。改めて聞いてみようと思い、アーティスト名からアルバムへ飛ぶ。

RAYが発売されたのは、わたしが中学三年生の頃だった。当時の担任の先生はバンプが好きな人で「光線って意味なんだって」そんなことを話した記憶がある。

わたしがバンプを好きになった頃に出ていたシングルはグッドラックだった(映画入りではない)。バンプを好きになってからリアルタイムで出たはじめてのアルバムがRAYだった(間にベストアルバムは出ていた)。

グッドラック発売からRAY発売までの二年間、とにかくバンプを聴いていた。初恋と呼ぶに相応しい熱の注ぎ方だった。過去のJAPANを読み漁り、ライブにも行った。そうしてようやく出たRAYのアルバムの『ray』という曲を最初に聴いた感想は「藤原基央が最高と言っている」だった。

藤原基央が最高と言っている。自由って言葉を使いたくなくて那由他を歌詞に入れた藤原基央が「生きるのは最高だ」と言っている。耳を疑った。“藤原基央がそんな言葉選びをするのか?“くだらないことにこだわっているように思うかもしれないけれど、当時のわたしにはもう、それはそれは衝撃的なことだった。何度も何度も聞き返した。聞き返している中、ミクとのコラボや東京ドームでのツアーファイナルが決まった。そして、この曲でMステに出た。のちに、わたしの中でバンプはRAY以前・以後で分かれることになる。

RAYのアルバムの曲並びを見て、そんな約十年も前のことを思い出していた。

アルバムを通して聴く。

そういえば、とまた思い出す。音楽が好きな友人が、音楽はアルバムごと聞いていると言っていた。

「本を作るときに作品の順番は考えないの?」と聞かれ、黙ってしまった。短編集を作る時、違和感のない繋ぎかどうか意識して作品順を決めている。DJ pekoのような名DJであるために作品を何度も何度も読む。アルバムの順番もきっと、そうやって誰かが作っているんだと気づいた。あの日。

そうやってアルバムの歌詞を聞いて“会話”をすると、その時のバンドのこと、その時の作詞作曲している人のことがわかるんだよ、と友人はうれしそうに言っていた。わたしも会話しているってことか、と上を見る。

そうして、あることに気づく。「これ、藤原基央疲れていないか?」

感情そのままに聞き終えて、最後の方は検算になっていた。

どこか「ぼくちょっと考えすぎ」な歌詞たちだけを見れば、いつもの藤原基央のやり方といわれればそれはそうなのだろう。でもそういうことではない。どうしてそう思ったかわからないのだが、久しぶりに聞いて、あ、藤くんはこの時疲れていたんだ、と感じた。

RAYの歌詞たちがプラスかマイナスかというのは聞く人によると思う。たとえばfireflyは諦めたこと自体を称賛するサビに続くし、ゼロも大きくはそのままでいいと言ってくれている(それでいったらMorning glowはずっと不穏、だいすきだ)。でもそういうことではなく(それに疲れている時に暗いことしか言わないということもないだろうと個人的には思う)。そういうことではなくてなんか、疲れてる、この曲もこの曲も、あれ藤くんこの頃疲れてたんだ?!とするする感じることができた。他のアルバムも聴いてみて、うまく説明できないけれど、RAYには感じた。

限界のラインを引き直して引き直して生活しているいまのわたしの身体にこのアルバムの曲たちがするする入ってくる理由もわかった気がした。

アルバムの単位で音楽を聞いて作者と“会話”をするを体験したよ、音楽聴くのたのしいねって話です。その時ほんとうに疲れていたか知ることはできない。

相手が与えてくれた言葉をじぶんの力量で受け止めて相手の状態を想像することを“会話”とするのがいいなと思った。目の前にいる人と直接会話してたって、その大丈夫が大丈夫かなんてわからないのだから。

会話は大事だし、言葉をそのままに受け取らないのも大事だし、顔を見るのも飛び抜けて大事。



追記 「君の生きる明日が好き」で終わっておけばいいのに「その時隣にいなくても」と付け足しちゃう藤くんのことやっぱりだいすきだと思った。
(藤くんへ)どこにいても、でいいんだよ(かんのより)。





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