vol.48 サマセット・モーム「月と六ペンス」を読んで(金原瑞人訳)
「月」と「六ペンス」という対比に惹かれ、読んでみた。
1919年に書かれたこの作品、100年経った今でも、イギリスの歴史的大ベストセラーとのこと。
この小説、ポール・ゴーギャンをモデルにしているらしい。パリで出会った画家「ストリックランド」に興味を持ち、作家の「わたし」が語り手となり、死後に名声を得た人物の生涯を書いている。とても風変わりな伝聞伝記小説だった。
それにしても「ストリックランド」という男、「わたし」が理解できないように、僕も理解できなかった。ただただ、揺るぎのない精神と美を追求する狂気的な生き様に圧倒させられた。天才とはそういうものかとも思った。不思議な魅力に惹きつけられた。また、人間の本質の複雑さを考えさせられた。そして、何よりも、モームの文章のキレのよさが心地よかった。特に会話の描写は、動作と情景がありありと浮かび、文句なくおもしろい小説だった。
<あらすじ>
作家である「わたし」は「ストリックランド」夫人のパーティーに招かれたことから、将来の天才画家「ストリックランド」に出会う。この時「ストリックランド」はイギリスの証券会社で働いていたが、40歳のある日、突然、仕事も家も妻子も捨てて出奔する。「わたし」は夫人に頼まれ、パリで一人で貧しい生活を送りながら、絵を描いている「ストリックランド」を見つける。
それから5年後、「わたし」はパリで暮らしていた。以前にローマで知り合った三流画家「ストルーヴェ」のもとを訪れ、彼が「ストリックランド」の才能に惚れ込んでいることを知る。ある日「ストリックランド」のアトリエを訪れた「わたし」は、彼が重病を患っていることを知る。「ストルーヴェ」は彼を自分の家に引き取り、妻の「ブランチ」と共に看病するが、そのうち「ストリックランド」に好意を寄せるようになった妻は、夫を捨て、「ストリックランド」に付き添うようになる。しかし「ストリックランド」の愛情を受けることができず、妻の「ブランチ」は服毒自殺してしまう。「わたし」は「ストリックランド」に会って彼を再び批判し、その後「わたし」が彼と会うことはなかった。
「ストリックランド」の死後、「わたし」はタヒチを訪れて、この島に住んでいたという「ストリックランド」の話を聞く。「アタ」という妻と暮らしながら絵を描き続けていた「ストリックランド」は、晩年、ハンセン病に感染しながら、恐ろしいほどの美しい壁画を描いていた。 (ウィキペディア参照に記述)
ゴーギャン最後の作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」1897年作
絵を描くことに取り憑かれた「ストリックランド」の生き方が理解できないが、なんとも気になる。彼には、何かの感情が欠けているように思った。決して禁欲的な人間ではないが、その精神をのぞくと、とても興味深い。
彼が何を考えて生きているのか。それが少しわかる描写があった。
「愛などいらん。そんなものにかまける時間はない。愛は弱さだ。おれも男だから、ときどき女が欲しくなる。だが、欲望さえ満たされれば、ほかのことができるようになる。肉欲に勝てないのが、いまわしくてしょうがない。欲望は魂の枷(かせ)だ。おれは、すべての欲望から解き放たれる日が待ち遠しい」(p247)
漱石の「こころ」の「K」を思い出した。「精神的な向上心のない奴はばかだ」と。100年前、狂気と日常の中で、肉欲と精神の葛藤の狭間で、理想を追い求めている登場人物が描かれた。そこに、この小説のおもしろさがあるように思った。
タイトルについて、新潮文庫のあとがきを引用する。「『月』は夜空に輝く星を、『六ペンス』は世俗の安っぽさを象徴しているかもしれないし、『月』は狂気、『六ペンス』は日常を象徴しているかもしれない」
なんだかゴーギャンの画を彷彿させられた・・気がする。
ゴーギャン作 自画像(レ・ミゼラブル) 1888年作
おわり
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