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vol.81 遠藤周作「深い河」を読んで

宗教とは何か。僕は今まで宗教についてしっかり学んだことがない。知識としては知りたいと思うが、目に見えないものを信仰する覚悟のようなものがないので、遠ざけてきた。そこに少し卑下する自分を感じる時がある。

だからなのか、この小説を深く知りたいと思い、「『深い河』創作日記」も合わせて読んだ。

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そこには、「宗教とは思想ではなく無意識である」と書かれていた。「生きていると『目に見えない力』を感じる時がある」とも書かれていた。また「どの宗教を選ぶかは環境によって左右される」とも書かれていた。

なるほど、そういった根本にあるものを踏まえて、改めて登場人物を振り返った。

・磯辺は、臨終の妻の言葉に捉われて、妻の生まれ変わりを求めていた。

・美津子は、他人を愛せない自分に不安を感じながら、自分にないものを持つ「大津」を求めていた。

・沼田は、飼っていた九官鳥が身代わりになったおかげで助かったと思い、九官鳥を求めていた。

・木口は、戦友が、生きるために仲間の兵士の人肉を食べた罪に苛まれて死んだことを知り、弔うことを求めていた。

・大津は、仏の神学校で異端児扱いされるも、ヒンドゥー教に受け入れられ、死体をガンジス河に運ぶ仕事をしていた。

・三條夫婦は、他の登場人物のような奥行きがなく、浅はかな人間として、大津への暴行を招いてしまった。

この6人の登場人物には、それぞれに背負った境遇があった。その中で何かを求めていた。そして、目に見えない力に押されてガンジス河に集まった。それは宗教に促されたのではなく、無意識に行動していた。

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そう思うと、「人間は、どこかの宗教に属する以前に、無意識の中にある、『自分を生かしてくれるもの』に対する気持ちを持っている」という晩年の著者の思いが、この小説を書かせたのかもしれない。

その上で、今度は自分自身のことを考えた。

僕はごく一般的なサラリーマンの家庭に生まれた。同じような環境の子ども達と同じような時間を過ごした。義務教育の中で愚直に育った。大学で初めて、誘われるままにカトリック教会に行ったが、触発される感性は持っていなかった。

小説の中の「三條夫妻」は、自分のことしか考えないエゴイズム満載の人間に描かれていた。20代のころの僕の中には、「三條」があったように思う。しかし、今は確かに「三條」とは違う自分を自覚できる。

なぜだろう。

日々の中で、喜びや悲しみを繰り返しながら歳を重ねた。ときどき理不尽に接し、裏切りや別れもあった。最愛の娘を亡くした時は混乱も経験した。難病の妻の存在も大きい。やがて、人の痛みを無意識に想像していた。他人の悲しみに思いを寄せることがクセにもなった。振り返ると、そこに『自分を生かしてくれるもの』を無意識に自覚していた。

それは思想とか信条とかではなく、意識の底から出て来たもので、やはり無意識の中にあるものだと思った。

この『深い河』は、まさにそのことが書かれているのではないかと思った。

・・・『1日も早く終息しますように』

おわり

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