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理想の公演形態の1つ【舞台公演】

2020年から2021年、コロナ渦で芝居というものは、必ずしも必要なものではないと感じています。ですが、現在のような状態から解放された日常に戻ったとき、きっと必要なものになると信じています。

演劇の効用

「演じる」ということは、誰しもが日常でやっていることです。その場所、状況や相手によって対し方を使い分けています。

対して、1つの作品の中で、決まった役割を演じるということは、本来の自分ではない別の境遇にいる自分として生きる、不自然な行為と言えます。

しかし、社会に上手く適応出来ず、もしくは適応しているフリをしていて、日常の中、息苦しさや生きづらさを感じている人間は、普段の自分ではない、しかし自分が演じる限り自分でしかない役柄を通して他社と交流する中で溢れてくる何かに救われることがあると思います。また、本当に良い物語に巡り合えたとき、それを観た人の心が少しでも軽くなったとき、更に大きな喜びを感じることが出来ます。

私自身、演じるということや作品にふれることで救われている部分があり、仲間とともに自分が、これからも芝居を続けていける道を開拓したいという思いが先にあります。そのためにまず「演劇という文化が、やる側にとっても、みる側にとっても、もっと身近で手軽に楽しめるものになれば」という願いをもって活動しているのです。

演劇のインスタント化

演劇は、特別な装置や場所がなくても、そこに人間がいて、少しの身近な物があれば出来るということ、それでも十分に楽しめる作品をつくることが可能であること、楽しむだけなら特別な技術は必要なく、誰でも気軽に1つの作品づくりが出来ることを示したい。

そんな思いを抱くきっかけになった公演が下記のものです。このとき私は出演者の1人として参加しましたが、現在、私とその仲間内で、ここまで削ぎ落とした芝居をもって、料金を取った鑑賞に堪えるレベルの作品をつくることは難しいと感じます。が、いずれはこのような作品づくりも挑戦出来たらと思える1つの公演形態です。

山本周五郎「かあちゃん」(1955年)

カフェのような小さなスペースで、小道具や効果を極力使わず、演者たちがその世界の空気を形作っていくお芝居。

語りと芝居でお届けする山本周五郎の「かあちゃん」。周五郎氏の知り合い家族をモデルに書かれたという作品。自分たちも含め、皆が生活苦にあえぐ中、本当にこのような家族がいたことは驚きです。生きてさえいければ、他に大切なものは何か? を考えさせられます。

これからの方向性

あくまで、普通に舞台公演が出来る状況ならば、このような作品づくりに取り組みたい、というものです。物語を上演するばかりが演劇ではありません。ただ作品を観るだけではない、もっと手軽でもっと身近に、演劇というものに触れていただける機会をつくっていけたらと考えています。

安心して観劇できる状況になるまでは、現在の状況だからこそ見えてくるもの、いまあるテクノロジーを通しての、自分たちのスキルを活かした何か新たな可能性を探りつつ活動していきます。

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清水康司 @演劇を身近に
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