オリンピックと多様性と非寛容と

 新型コロナウィルス感染症が蔓延する中での東京オリンピックが終わった。今回のオリンピックを巡っては様々な問題があり国民に深刻な分断をもたらした。このことに非常に心を痛めており個々の問題についても意見はあるが、気になるのは他者に対する非寛容である。
 事前の様々な懸念に満足のいく説明がなされないまま開催に至り、賛成反対が入り乱れた状態はまったく解消されていない。そして賛成反対のどちらの立場も相手に歩み寄る、あるいは相手を説得しようという姿勢が見られないことを憂慮している。

 今回のように新型コロナウィルスの問題やオリンピックの運営の問題があぶりだされる中で、様々な人が様々な意見を持つことは当然である。
 建前であってもダイバーシティーとインクルージョンを謳う大会に賛同するのであれば、その理念まで含めて受け取らなくてはいけないと思う。
 とかく物事を良い悪いだけで切り取ってしまう非寛容が前提だからこそ、謝ったら負けという空気が醸成されているのではないだろうか。大事なことは皮相な二元論に基づく勝ち負けではなく、相克を乗り越えて基本的・普遍的な価値観を共有することのはずだ。反対意見をねじ伏せて価値観を押し付けようとするのは乱暴であり、仮にそれによって勝ち負けが決まったとしても負かされた側が勝者の理論に心から賛同することは決してない。
 今、世界で起きている様々な問題を考えるとき、多様性を前提とするなら、どの立場にあっても相手を尊重する姿勢で、理性的を対話することが必要である。

 なお、多様性を語るときにしばしば差別的な言説もまた多様性であるという意見があるが、これは全く認められないことは強調しておきたい。差別は多様性の否定である。多様性を否定しながら多様性の土俵に乗っかろうとするのは大いなる矛盾である。
 だから多様性を貴ぶ現代において差別は徹底的に指弾されるのであるが、残念なことにそれを理解しない人は多い。

 困難な現状に対して議論が百出するのは当然だが、その先に目指すゴールを見失ってはいけない。議論のゴールは勝ち負けを明らかにすることではなく、正しい現状認識に基づく合意形成だと考える。より良い将来のために、時には過去の自らの誤りを認めなくてはいけない局面もあり得る。完全無欠な人間がこの世に存在しない以上、過去から現在に至るまで自らは全く間違っていないと言える人は誰もいないはずである。
 それをせず「自分は正しい」だけを貫こうとして、非寛容と分断の泥沼にはまって抜け出せなくなることは大いなる悲劇である。
 建設的な議論のための前提として、他者に対する寛容を失わないようにしたい。

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