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「住めば都」の真意

格言の一つに、「住めば都」という言葉があります。今のところ、私にとっては福島での暮らしが人生の九割以上の期間を占めています。そのため、今さら他の土地で暮らす自分は想像しにくいかもしれません。

ですが、それ以外の場所の場所で暮らした期間もあるわけです。

青森時代

こちらは何度か触れていますが、中学校3年間と2ヶ月あまりを、青森県南部地方の某町で過しました。
今まで「割といい思い出」ばかりを書いてきましたが、そればかりではありません。都市部から離れて閉鎖的な色合いも濃い土地であり、文字通り「村八分」にも遇いました。言葉も福島と全く違いますし、珍姓だったこともあり、それで見知らぬ先輩からいじられたことも。

なまじっかそこそこ好成績の生徒だったので、余計に同級生の妬みを買っていた部分もあったのでしょう。学年ぐるみでの「いじめ」にも遭っていますし、2年生の「サマーキャンプ」でのある出来事は、職員会議でも取り上げられたほど。

3年間を通じて、物を隠された、教材である合唱集を破かれた、罵詈雑言を浴びたなんていう経験も何度かありました。
そのストレスからメンタルがやられかけていたのでしょうね。今となっては笑える黒歴史ですが、「プチ家出」もやったことがあります。

ただ、それでも全てを否定する気にならないのは、プラスの思い出や経験もちゃんと残されているから。
本気で人を想うというのを知ったのも彼の地でのことでしたし、「勉強するのが当たり前」という学習の基礎が身についたのも、この頃でした。

同じ環境で3年半過ごしたはずなのに、福島に戻ってきて勉強から逃げ回っていた妹を見るにつけ、やはり多感な時期にあの土地で学んだものも多かったのだと、今では思っています。それどころか、彼の地で学んだ種々のことは、たまにnoteでもネタで使わせてもらうことも。

総じて、青森で過ごした3年間は、長い年月を経て、私の中ではうまく「プラス要素」に転じることができているのかもしれません。

バンコク在住

もう一ヶ所思い出のある土地と言えば、「バンコク」です。住んだ経緯としては、(戸籍上の)夫と言われる人にくっついていったわけですが、付き合いが長かったにも関わらず、あっさりと浮気されて音信不通になりました。
そんなわけで、バンコクはほんの少しだけ、ほろ苦さも伴っている土地でもあります。

青森もそうでしたが、こちらは外国だけに、カルチャーショックは物凄く大きかった。
当たり前ですが、まず、日本語がほとんど通じません。なので、タイ語を学べば良かったのですが(一応、簡単な単語だけは覚えた)、前述の通りなかなかヘビーな状況だったので、語学学校に通うゆとりもありませんでした。

そんなわけで日常の場面では、世界の共通言語である「英語」に頼る場面が多かったと記憶しています。バンコクは国際都市なので、大きいスーパーなどでは英語表記がありましたし。

渡泰前には家庭教師をしていたこともあり、高校レベルまでの英語はできましたが、所詮、机上の学習。実際に英会話で使いこなせるかは、また別物です。
それでも次第に「英語」に慣れていきましたが、何週間も日本語が喋れないというのは、なかなか精神的に来るものがありました。

また、結構辛かったのが「味覚の不一致」。小さい頃から植え付けられた「味覚」というのは恐ろしいもので、どうしてもタイ料理の味付けに馴れることができませんでした。
私が特にダメだったのは、「ココナッツミルク」。あれがダメでしたね。
辛くないビーフン系やカオマンガイなど平気な物もあったのですが、選択肢は非常に限られていました。

米の味の違いも、結構しんどかったです。最初のうちは安い「タイ米」を買っていたのですが、どうしても食が進まず、そのうち高いのを承知で現地産の「日本米」を買い求めるようになりました。
醤油なども伊勢丹やフジスーパーに買いに行っていましたし、台所がない物件だったので、炊飯器調理で頑張ってしのいでいましたっけ。

安全は何物にも代え難い

また、在タイ時の出来事としてよく覚えているのが、ビザ取得も兼ねて隣国のカンボジア(アランヤプラテート-ポイペット間)に遊びに行った際のこと。何とその日、首都プノンペンで日本人学校襲撃事件があったとかで、国境にも戦車が出動。
幸い何事もなくタイ国内に戻ってきたのですが、日本がいかに安全な国であるかを、噛み締めたものです。

在タイ期間は約半年ほどですが、丁度「タクシン」政権の頃で、その後、タクシン政権はクーデターによって倒されました。そのクーデターの影響で、バンコク都内でもテロが多発。

この頃には既に帰国していましたが、爆弾テロのあった場所のうち、「ランナム通り」や「センセーブ運河の船着き場」などは、私も馴染みのあった場所でした。見覚えのある場所がテロ現場として紹介されているのをニュースで見て、背筋が凍ったものです。

また、そこまで深刻ではないものの、結構ホラーな話もありました。
住んでいた場所は外国人専用のようなマンションでしたが、中には「麻薬の売人」もいたという噂もちらほら……。
大通り(マッカサン駅付近)は赤信号無視も当然でしたし、大通りを渡るのは文字通り命懸けでした。

「よく騙されずに済んだね」と色々な人に言われましたが、スリや詐欺の話は、現地では珍しくありません。日本人が日本人を騙すのも日常茶飯事で、「人を見たら泥棒と思え」という言葉が、ぴったりの環境だったかもしれません。

それでも神経を研ぎ澄ませつつ、無理のない範囲で、在タイの生活を楽しんでいたのでした。
余談ですが、今まで住んだ中で一番都会だったのが、バンコクです。在タイ時で楽しんだもの中には、「都会での生活」も含まれていました。
伊勢丹はテナントとして入居していた紀伊國屋書店目当てで数日おきに通っていましたし、バンコクではそれなりにアグレッシブに過ごしていた気もします。

どこでも住めるとしたら

これらの経験を踏まえると、私が居住地に求める条件は、つぎのようなものです。

1. 安全が確保できる土地であること
2. 土地の味や食材が自分が育った地域に近いこと
3. 言葉が通じること
4. 程よく都会であること

そのようなわけで、この条件を満たすとなると、現在住んでいる場所を除けば「東京」「仙台」「札幌」。
これらが、私の住んでみたい街の候補に上がるでしょう。

まず東京について。生まれは東京ですし、戸籍上の夫も東京の人ということもあり、現実的にあったかもしれない「未来予想図」の土地でした。
仙台は、「住む街」としてはあまり意識したことはありませんが、少し気合の入った買い物というと仙台に行くことが多いですし、割と馴染みのある街です。
最後の札幌は、頭脳さえ伴っていたら北大を目指したかった人なので、今でも憧憬の街といったところでしょうか。

ですが先の経験を踏まえると、人の適応能力は案外侮れないものではないでしょうか。
妙な執着心さえ持たなければ、どのような環境であっても逞しく生きていくこともできる。
カルチャーショックの洗礼は、自分の視野や器量を広げて成長させてくれるきっかけにもなり得ます。

「住めば都」という格言は、この「環境への適応能力」を指しているように感じてなりません。

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