自治都市須賀川
間もなく「直違の紋に誓って」の連載が終わりますが、第一章の白河戦争の際に、東軍の前線基地となっていた「須賀川」。
そういえば、その頃の須賀川って「そもそもどこの藩よ?」というのが
ずっと引っかかっていました。学校でも、「宿場町として発展した」としか教わっていないですし。
結果的には「一応、白河藩」。
「一応って何だよ?」というツッコミが来そうですが、調べる方も難儀な実態が有りました^^;
そもそもは伊達政宗が滅ぼした
天正十七年(1589)、須賀川の二階堂氏一族は奥州の覇者、伊達政宗によって滅ぼされました。
その後、あれやこれやあって須賀川は江戸時代初期には、会津藩領。
ところが、会津騒動(早い話が、領主をクビに💦)によって加藤明成は領地を返上。この後会津には保科正之が入りますが、須賀川は白河藩の支配下に領地が変更されました。
当時、白河藩には「敷教舎」という官立の学校がありました。
その分校が須賀川にも設けられるなど、白河藩においても須賀川は要衝の地として重視していたことが伺えます。
さて、江戸時代初期の須賀川宿には、4つの町がありました。
古町
中町
北町
道場町
これらを統治していたのが、郷士。その出自は様々ですが、白河藩内においてもちょっとした自治都市のような役割を担っていました。
江戸時代は、相楽氏、内藤氏、藤井氏、市原氏などが庄屋として須賀川の自治の代表者を務めていたようです。
余談ですが、
などの俳人を排出。須賀川の郷士や庄屋は、当地方の文化の担い手でもありました。
まあ、細かいことはさておき、松尾芭蕉が滞在したころは「白河藩」でした。
支配実態が複雑だった須賀川
さて、江戸時代の須賀川地方の歴史については、こんな事を書いたことがあります。
まさか、このときは「その後」が解明されるとは思っていませんでした。
6つの藩や直轄地が入り交じる土地
ところが、戊辰戦争の頃はこんな具合に。
いや、複雑すぎません^^;?
地元民の私ですら混乱するレベルです。
それでも書出してみると……
白河藩
常陸府中藩飛地
旗本溝口家知行所
旗本三枝氏知行所
越後高田藩飛地
土浦藩飛地
などが、須賀川の土地の中にモザイクの如く、点在していたようです。
このうち、3については以前に説明したことがあったので、1、2、4について簡単に説明を。
まず、1の白河藩の支配領域。
白河藩が支配していたのは、須賀川宿、江持村、堤村、保土原村、矢田野村、桙衝村、小中村。
中でも重要なのは須賀川宿で、岩瀬地方の行政の中心でもありました。
そして、参勤交代では必ずといっていいほど諸大名が泊まる街です。
また、矢田野村や桙衝、小中などは会津方面に向かう要衝。
重要な土地は、白河藩の管轄でした。
まあ、小学校の校歌に「丘の街」なんていう歌詞が出てくるくらいですから、割とアップダウンの激しい丘陵地帯なのは確か。
ここで本気で戦う気があったかどうかはわかりませんが、割と昔から要害の地でしたからね。
東軍が前線基地にしたのも、頷けます。
続いて、2の常陸府中藩。これもどこよ?と思っていたら、茨城県石岡市のあたりにあった藩だそうです。6の土浦藩もですが、岩瀬地方&郡山の辺りには、割と茨城県系の支藩の飛地が存在しているのです。
(二本松藩を裏切った守山藩も、水戸藩の一派)
何でこんなに複雑なんだよ?と思うのですが、やはり、近くに外様である「二本松藩」があったからなのかなあ……。
そして残りの4の三枝家。
これもよく分からない旗本なのですが(苦笑)、6500石を拝領していたとのこと。
また、越後高田藩の飛地は、恐らく溝口家との絡みもあるのかなあ?と推測。ただし、詳細は不明です。
西軍は須賀川をどのように見ていたか
小説の作中で白河戦争について書いたのは大分前なのですが、ゆきじのすけさんの記事を拝読して、また幕末に戻って書きたくなりました(笑)。
幕末情勢の概要については、軽妙な語り口のゆきじのすけさんにお任せするとして。
「この頃、西軍が岩瀬地方にやってきてどんな命令を出していたか」という記録が、須賀川の藤井家に残されていたようです。
こんな立て札を、岩瀬の地に立てていったようですよ。
いやあ、いわゆる「新政府軍」(意地でも「官軍」とは言いたくない)の高飛車な様子が、よく伺える(苦笑)。
私も古文読解の専門家ではないので、正確な読解はできませんが、要するに
我々は王師(帝の兵)として、征伐にきた。今までのことを後悔して恭順の意思を見せれば、許してやる
取り敢えず、郡司の代わりを置いていく。そいつの言うことを聞くように。
今までの旧弊は廃止する
逆らう奴は、処罰する
といったところ。
どこぞの馬の骨?とも分からない、言葉が通じない(方言がお互いに通じなかったはず)人がやってきて、こんな立て札を建てて支配できると本気で考えていたとしたら、相当に奥州を小馬鹿にしていますよね。
小説の中で、薩摩の人間である宇都に「王師という言葉に酔いしれていた」と言わせましたが、ここでも「王化」という言葉が出てきていますし、やはり、西軍のやり方は悪手だったと感じざるを得ません。
緩衝地帯だった須賀川
そして、「一応白河藩領」だったと書きましたが、実は、戊辰戦争の時、白河藩は「領主不在」。
これは、棚倉藩の領主である阿部氏が白河藩への領地替えを拒んでいて、白河ははまさかの「空城」でした(苦笑)。
ただ、白河は奥州の要ですからね。空城にしておくわけにはいかないので、隣藩である「二本松藩」が幕命により「預かって」いたのです。
その後で、会津藩との偽戦を繰り広げ、一時的に会津藩が白河城を奪取。
ですが、すぐに西軍との激しい攻防を繰り広げ、白河を取り戻すことができなかった次第です。
多分、博物館にあったパネルを見る限りでは、幕末の須賀川は「どこの藩の領土」という意識が希薄で、結構地元民もいいように利用されたのでは?と感じます(苦笑)。
旗本のお人なんて、どうしていたのでしょう?
とどめは、8/22の会津藩の引き上げの際に、会津藩or仙台藩に放火されたと言われています。
その火災の様子は、会津からでも見えたのだとか。
須賀川の歴史で本当に面白いのは中世
……とまあ、ここまで割と辛辣に書いてきましたが、実は須賀川の歴史が本当に面白いのは、中世かもしれません。
「鎌倉殿の13人」に出てきた「二階堂氏」が、表舞台で取り上げられることは少ないものの、有能だった様子が郷土史からは伺えますし、松明あかしの由来となった大乗院の悲劇とは別に、二階堂為氏と三千代姫の悲話なんて、絶対に小説向きの素材。
その一方で、「二本松少年隊」以上に情勢把握が難しいというハードルもありますが^^;
南北朝~室町時代まで、あっちもこっちも「骨肉の争い」が多すぎです……。
一応、資料は少しずつ蒐集&情報の整理中ですので、また気が向いたら小説にするかもしれません。
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