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丹羽家ファミリーヒストリー~前編

さて、今度は「丹羽家ファミリーヒストリー」についてです。二本松藩の作品をいくつか書いている割には私もきちんと調べるのは初めてで、どちらかというとその家臣団に注目しがちでした。ですが、「中興の祖」とされる「丹羽長秀」は、織田信長の家臣としてご存知の方も多いのではないでしょうか。


丹羽家の出自三説

丹羽家発祥のざっくりとした歴史については「大谷家」のところでも説明しましたが、実は三つの説があるようです。

1.藤原姓説
関白藤原道隆の子、藤原伊周の次男である遠峰の末流とする説。武蔵国春日井児玉党の一族。
忠長が尾張国丹羽郡児玉村に移って「丹羽」の姓を名乗り、尾張国守護である斯波氏に仕えた。

2.平姓説
建仁元年(1201年)、梶原景高の子豊丸(景親)が尾張丹羽郡羽黒村に逃れた。その際に7人の従者がいたが、その内の1人、丹羽兼家の末裔である。

3.良岑姓説
桓武天皇の皇子、良岑よしみね安世の末裔とするもの。この説を取ると、良岑から数えて忠長が三十九代目の子孫となる。

ちなみに、丹羽家譜では平姓→藤原姓→良岑姓と二回改姓したと伝えられています。

長政・長秀時代

先に大谷家との関係でも触れましたが、長政は斯波義統(武衛)に仕えていたと言います。また、長男の長忠も義統につかえていましたが、天文23(1554)年7月12日、守護代織田信友が清州城を奇襲した「清須合戦」で戦死。
この頃、次男の長秀は既に織田信長に仕えており(1550年より出仕)、長忠に継嗣がいなかったため、こちらが本流となりました。

長秀公

肖像画:「にほんまつ城報館」所蔵

先に書いたように、長秀公は「丹羽家中興の祖」とも言われています。天文4年9/29、尾張丹羽郡児玉生まれで、幼名は万千代。勘の良い方はおわかりかもしれませんが、信長から偏諱(諱から一字与えること)を許され、「長」の字を使っています。
それだけでなく、長秀の妻は信長の庶兄信広の娘(信長の養女でもあります)。さらに、長秀の嫡子である長重も信長の娘を娶り、「長秀は友であり兄弟である」と信長から言われるなど、非常に厚く信頼された様子が伺えます。何せ、織田家中で二代続けて信長の縁者になったのは、長秀だけだと言いますから。

ちなみに長秀が家督を継いだ頃の丹羽家石高は、13万石ほどと推定されます。

長秀公が信長から拝領した采配。
こちらも、信長公縁の「軍扇」と言われています。


姉川の戦いの直後、信長は近江佐和山を8ヶ月間包囲しますが、佐和山城降伏後、元亀2(1571)年、長秀が佐和山城主となったのです。

このときの石高は18万石。その後、天正元年(1573年)8月、越前や若狭で勢力を振るっていた朝倉義景討伐に参加。同年9月、若狭一国を与えられ、織田家中で最初の国持大名になりました。

長秀は信長の各方面攻略における「総大将」にはなりませんでしたが、ユニークなところでは、「安土城普請奉行」を任されています。
また、各方面の援軍や補給路の確保など「縁の下の力持ち」として、織田家の行政・軍政双方において、頼れる存在でした。
当時織田家中での風評として、「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という戯れ歌がありました。
木綿の「藤吉」は、秀吉のこと。華美ではないが重宝である、というようなニュアンスです。これに対して「米五郎左」が長秀のこと。(五郎左は長秀の通称)
非常に器用でどのような任務でもそつなくこなしたことから、米の如く毎日の生活で欠かせない人物、という意味です。

余談ですが、「掛かれ柴田」は「猪突猛進タイプの柴田勝家」、「退き佐久間」は「何かというと臆病風に吹かれる(慎重派とも読めますが)佐久間信盛」といったところでしょうか。
最後にある「佐久間信盛」が信長によって馘首された後、柴田勝家に継ぐ二番家老として、長秀もその地位を確立していくはずでした。

本能寺の変

ところが1582年6月、本能寺の変が勃発。このとき長秀は、信長の「四国遠征・長宗我部元親討伐計画」の副将として(主将は信長三男の信孝)、大坂にいました。一応京都に一番近い位置におり、かつ大軍団を擁していたのが丹羽長秀&信孝だったのですが、丁度家康が上洛してきており、その接待役を命じられていたのです。長秀らは接待のための接待?(供応役:蜂屋頼隆)を大坂岸和田で受けていた最中に、本能寺の変の知らせが届いた次第でした。
そのため、四国遠征軍本隊(住吉にいました)とは別行動で、四国遠征隊はあえなく四散。秀吉に後事を託すしかなかったと言われています。

清須会議・賤ヶ岳の戦い

信長の後継者を決める「清須会議」では、長秀は池田恒興とともに、信長の嫡孫「三法師」を支持。さらに天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉の援護に回り、戦後、柴田勝家の所領などを引き継ぐ形で、越前北之庄に入部しました。
このときの石高は60万石~123万石と言われています。
→石高幅が大きいですが、「城報館」のパネルでは123万石。

結構石高の乱上下が激しいです。

そして、天正13年(1585年)4月16日、長秀公死去。
死因は「寄生虫」とのことで、生前から長秀公は随分とこの「寄生虫病」に悩まされていたようです。
一説によると、死の直前に長秀公は「積虫(寄生虫のこと)のせいで死ぬはずがない」と述べて、腹に短刀を突き刺して腹中の虫を取り出したとのこと。
ですが、長秀公が亡くなった後も「すっぽんに似た」その虫は生きており、かつ背中に刀傷がありました。さらに平然と這い回ったので、竹田法印(医者)が虫に薬を飲ませて、ようやく長秀公を悩ませていた虫は死んだという、オカルトめいた伝承が残されています。

長重公の苦難

長重公肖像画。

長秀公の後を継いだのは、嫡男の「長重」公でした。
ですが、丹羽家の勢力を恐れたのかどうか……。秀吉から言いがかりをつけられて、12万3千石(若狭小浜城主)、4万3千石(加賀松任城主)と、丹羽家は何だかんだと減石処分を受け続けます。この頃、丹羽家も長重の代に移り、12万5千石の加賀小松城主として、しばらく北陸に腰を据えていました。そして、秀吉の死後に起こったのが、慶長5年(1600年)「関ケ原の戦い」でした。

北の関ケ原~浅井畷の戦い

皆様御存知のように、関ケ原の戦いを「本戦」と位置づけるならば、その前に、日本のあちこちで「東軍(家康側)」と「西軍(三成側)」が戦いを繰り広げました。
東北でいうならば、「上杉景勝VS伊達政宗及びその周辺大名」の対立が有名ですが、北陸でも「北陸の関ケ原」と呼ばれる戦いがありました。
それが、「浅井畷あさいなわての戦い」です。

これは、ざっくりまとめると「母親(芳春院=まつ)を徳川に人質に出していた前田利長」と、「丹羽長重」の戦いです。
この北陸方面の諸大名に対して工作を行っていたのは、大谷おおたに吉継。前田利長の動きを牽制するために越前~加賀南部における諸大名に対して、勧誘工作を行ったのでした。この頃加賀12万5千石を預かっていた丹羽長重(丹羽本家)、越前東郷5万石を預かっていた丹羽長正(長重の弟)の他に、西軍についた武将としては織田秀雄(大野5万石、織田信雄の子)などがいます。

7/26~8/2にかけて、前田利長は丹羽長重の居城である小松城を攻略。ですが、攻め落とせず一旦他の地域の攻略に向かいました。これを聞いた大谷吉継は、諸々の流言を流して前田利長を小松から金沢に退かせることに成功。この利長撤退の際に、丹羽長重は小松城から出撃。小松郊外にある「浅井畷」で、前田軍を破ります。

その後、利長は家康の命を受けて、再度美濃進出を図ります。長重は利長に降伏を申し入れましたが、9/15の関ケ原本戦に間に合わなかったのでした。
また一説によると、長重公は家康から密かに「前田利長の監視役」の密命を受けていたとも伝えられています。
真実はわかりませんが、この「浅井畷の戦い」が家康に対する敵対行為と見做され、丹羽家は「改易」、すなわちお家取り潰しになったのでした。


長くなってきたので、分けます。
次回は、「関ケ原の戦い」の後の、丹羽家苦難の時代からです。

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