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朽木牆糞

本業とも拙作とも関係ないのですが、ふとしたきっかけで、久しぶりに論語の一節を調べてみました。
そこで出会ったのが、次の文言です。

宰予昼寝。子曰、朽木不可雕也。糞土之牆不杇可也。於予与何誅。子曰、始吾於人也聴其言、而信其行。今吾於人也、聴其言、而観其行。於予与改是。

ある時、弟子の宰予が昼寝をした。孔子はその怠慢な心を責められ、「腐った木は彫刻をしようにも出来ないし、また、内部が腐ってボロボロになった土塀は、いかに外部から鏝を掛けて美しく塗りたてようとしても、だめである。お前には小言を言う甲斐もない」と強く戒められた。そして更に、「始め自分は人を見る場合に、大抵その人の言葉を聴きさえすれば、その人は必ず言葉通り実行しているものと信じていた。ところが今からはそういう考えではいけなくなった。即ちその言葉を聴いた上、更にその行いを見なければ、その人を信ずることが出来なくなった。これというのも、畢竟宰予が言行不一致であったが為に、人を見る観方を改めるに至ったのである。

ここで言う「朽木」とは、文字通り腐った木。そして、糞土之牆とはごみだめの土で築いた土塀を指し、内部が腐っていることの例えにも使われます。

要は、誰かを教育するに当たり、本人を成長させようと説諭し、欠点を修正させようとアドバイスや諫言をしても、無駄な人間はいるものだという教訓です。
類似のことわざとしては

「馬鹿は死んでも治らない」
「蚊をして山を負わしむ」(分不相応な荷を背負わせるようなものだ)

というものがあるでしょうか。

誹謗中傷や各種嫌がらせに関しては、私も随分とやられてきましたが、どこか醒めた目で相手を眺めるようになったのは、結局この孔子の心境に近いのかもしれません。法的措置を取っても尚懲りない相手などは、ただの◯◯じゃないですか。
※空白部分は、各自の想像力にお任せします。

結局、この手合の人が本当に好きなのは、お付き合いしている人ではなく、「ちょっと人から注目されているかもしれない、人と違うかもしれない自分自身●●●●」。だから自分の思う通りにならなければ平気で掌を返しますし、嘘だって周りに平然と吹聴して回り、悲劇の人を演じます。嘘つき?そんなのいちいち覚えていない、知らなかったことにされます。何せ、自分の感情が第一優先事項であり、自分自身の言動に一切責任を持たないのが、この手合のデフォルトですから。

そういう人は、いっそ放置で構わないと思うのです。
孔子ですら匙を投げるような、そして従来の「性善説」を改めざるを得ないような人物に出会っているのです。凡人である我々が「朽木牆糞之御仁」を見放したって、良いのです。もちろん、相手の非常時に手を差し伸べてやる必要もありません。情を掛けてそんな真似をしたところで、下手すれば、相手のプライドを傷つけたと逆恨みされるのがオチですって(棒読み)。


もう一つ。論語で印象深い格言がありました。

子曰、古者言之不出、恥躬之不逮也。

孔子が仰せられた。「昔の人はよく言語を謹み、むやみに口に出さなかった。それは、自分自身に実践躬行することが出来ない場合を恥じるからである」

拙作「鬼と天狗」で、謹慎中の三浦権太夫が弟の忠三に同じようなことを言って説教していたなあ……と思い出したのですが(「江戸震撼」の一シーン)、当時の武家社会の常識でもあったのでしょう。学校のテキストにも論語があったので権太夫もごく自然に学んだのでしょうが、この考えは私も賛成です。

まったく、自分自身は超安全地帯にいながら、思いつきだけで遠くからあれこれ偉そうなことを言うな、という話です。
いるじゃないですか。人の揉め事に自分から首を突っ込んでおきながら、「自分は関係ない」とばかりに、敵前逃亡する人って。
結局このような人は、他人の不幸を「エンタメ」として面白がっているだけなのでしょう。昔の人の「それは恥ずかしいことだ」という道徳観を知らないにしても、です。思いやりの欠片すら持ち合わせないということでもありますよね。

この手合も、「いずれはフェードアウト」で良いのではないかなあ……というのが、私の意見です。口が軽い人には、絶対に日頃から秘事を打ち明けてはいけません。上の「朽木牆糞之御仁」にも言えることですが、万が一の責任を持ってくれないです。


以前書いた、「悪口や誹謗中傷の行動原理と解決」での結論も

• 誹謗中傷をすることに何一つメリットはない
• 誹謗中傷をする人は脳や心にバグがある可能性がある
• 誹謗中傷者からは「逃げ」が基本。相手方への安易な同情は禁物
• 自分自身はEQを高めて冷静に対処できるようにする

と書きましたが、やはり孔子の言わんとしていることも、同じことのような気がするのですが……。


追記。

「結局、被災者マウントを取りたいだけだと思う」
3.11当日にこのような書き込みを見掛けて、血管が切れそうになったのは、つい先日のこと。
どうやら、◯◯な人の中では、被災地の人が「哀悼の意」「復興の喜び」を表明することすら、マウントになるらしいです……。たとえ、その発言が特定の人に対する当てこすりだとしても、結果としては多くの人を怒らせる・傷つけることにも気づかずに。

いや、それよりも自分の感情が何よりも大切な人ですからとどのつまり、周りの感情は歯牙にも掛けないのでしょうね。
なぜ、「不謹慎と叩かれる」と自虐しながら、同じことを繰り返すのでしょう。結局は、自分の価値観でしか物事を見れないから、周りもそうだと信じて止まないだけでは?
この手合の人から「忘れないで」と言われても、空々しいだけであり、却って怒りを買うというものです。余計な本音を聞かされた後に「形ばかり」のお悔やみを述べられるくらいならば、黙っていてもらう方が、余程マシ。
自分の思いはチラシの裏にでも書いていればいいんです。

孔子がかの人を見たら、どのようなジャッジを下したか、孔子に教えを乞いたいものです。
やはり、◯◯は絶対に矯正しようがないと、私も思った次第です。
孔子の論語の話は、地元の人と怒り狂った際の会話からヒントを得て、調べてみたものです。

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