泪橋~神仏の功徳(3)
さらに翌年、為氏は岩瀬村にある八幡宮を奉還すると言い出した。
「今に須賀川は寺社だらけになるのではないか」
宍草与一郎は、そう述べて苦笑を浮かべた。
「いや。御屋形なりにお考えになってのことらしい」
安藤帯刀が、与一郎の言葉を遮った。
「御屋形が奉還されようとしている八幡宮は、元々は岩瀬の奥地にあったと言われている。本格的に、須賀川に落ち着くために、八幡宮を遷宮して地祇となってもらおうということだろう」
帯刀の言葉に、図書亮は納得した。
「八幡神は阿弥陀如来が本地仏だしな。かつ、武の神の神祀の力を借りて、治部討伐の決意を見せようということか」
一応、筋は通っている。帯刀は図書亮の言葉に軽く肯くと、さらに言葉を繋いだ。
「もちろん、それもある。だが、それだけでなく今度八幡宮を奉還しようとしている場所は、須賀川城の裏鬼門の方角だ」
図書亮は、脳裏に須賀川の絵図を思い浮かべた。大黒池の裏手のところに、こんもりとした森がある。為氏は、そこを鎮守の森としたいらしい。
安藤によると、天喜五年(一〇五八年)、源頼義が奥州の安倍氏討伐のためにこの地に立ち寄った際に、石清水八幡宮の分霊を勧請創祀したと言われている。八幡神は平安時代以降、清和源氏や桓武平氏の尊崇を集めており全国各地で八幡宮を勧請されているから、この土地に八幡宮があったとしても不思議ではなかった。
また、裏鬼門は南西の方角である。陰陽道では裏鬼門の家相が悪いと夫婦間に受難があり、特に妻に災いが及ぶと言われている。
そっと首を巡らして振り返ると、美濃守がやや苦っぽい表情を浮かべている。多くは語らないが、美濃守も為氏のもう一つの意図に気付いたようだった。
為氏としても、根本としては治部大輔の増上慢は許しがたい。だが、それ以上に三千代姫への愛情が勝っているのだ。治部大輔への怒りと妻への愛情の板挟みになっている。そのために、表向きは治部討伐の決意を家臣に示しながら、実は三千代姫に災難が及ばないようにとの願いも込めて、八幡宮を裏鬼門に遷宮し、出来れば神祇の力を借りつつ円満な解決を図ろうという苦肉の策なのだった。
「須賀川衆は、何も言ってこないのですか?」
図書亮は、たまたま峯ヶ城に伺候してきた源蔵に尋ねた。図書亮の質問に対して、源蔵は首を横に振った。
「特には。一応、須賀川城の裏鬼門に八幡宮を勧請するというのは、二階堂一族全体としての筋は通っているからな」
確かに、筋は通っている。だが、治部大輔を始めとする須賀川方が何も言ってこないというのも、それはそれで不気味だった。自分等のことしか見えていないのか、それとも和田衆や周辺の土地の者を侮っているのか。
図書亮に説明してくれた源蔵の住む古舘は、須賀川城の鬼門に当たる北東に位置している。館そのものは、美濃守が住む峯ヶ城と同じように、眼下を逢隈の大河が流れている。そこから逢隈川を渡って北東を目指せば、宿敵である田村氏の勢力範囲にぶつかる。古館の館は図書亮も訪れたことがあるが、その館のある場所の下には、かつての有力豪族の墳墓があるのだと言って源蔵は笑っていた。墓のある所に住まうなど図書亮はぞっとしないが、見様によっては、その祖霊の力を借りて守護神とし、須賀川全体を守ろうとしてるとも取れる。
そのような古来の慣習を、治部大輔はどのように見ているのか。起請文にも書かれていたように、地祇への信仰をおろそかにするなど、土地の者からすれば許しがたいに違いない。
一方為氏は年少の身でありながら、信心深い。先年國造が祀られている白方神社へ参拝したり、その白方神社を建立したと伝えられている石背国造であった建弥依米命に縁の深いオタキヤ様を庇護したりするなど、治部大輔とは正反対だった。
もちろん、為氏一人の力でこれらを全て考え出したとは思えない。四天王を始め、山城守など他の二階堂一族の古老の知恵も借りての立案だろう。
それにしても、なぜ四天王らはそこまで為氏を須賀川の主と担ごうとしているのか。もちろん為氏が正当な二階堂一族の血筋だからというのもあるだろうが、別にこのまま和田に居を構えるのでも良いのではないか。
その疑問を、図書亮は安房守にぶつけてみた。
「うむ。それは今は言えぬな」
安房守は、至極あっさりと図書亮の疑問をかわした。
「口にすると、神仏の罰でも下るのですか?」
冗談混じりにそう言うと、じろりと美濃守に睨まれた。慌てて首を竦める。
「ま、そんなところだ」
冗談とも本気ともつかない口調で、安房守も話を逸らす。どうやら、図書亮にはまだ話せない土地の事情があるらしい。
――結局八幡宮の遷宮も、為氏の意見が通された。大黒石池は、須賀川城から西へ四半里ほど行った場所にある。その池を左手に眺めながら坂を下ると、遠藤雅楽守の領地である茶畑や箭内一族の住まう堀底にたどり着くのだった。さらに、鎌倉へ続く鎌倉街道も通っており、確かに為氏がここに八幡宮を勧請するのも理解できる。
だが、もっと不可解なのは美濃守の動きだった。元々彼も鎌倉に居住しており、和田を始めとする所領の管理は和田七将や弟たちに任せていたらしい。だがここに来て鎌倉府を見切ったのだろうか。
©k.maru027.2023
>「神仏の功徳(4)」へ続く
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