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「直違の紋に誓って」~こぼれ話3(前編)

全ての話を公開いたしました。約三ヶ月余り、長かった^^;
書いている側も、途中で何度も涙した作品です。
第三章は前二章から飛躍して大人になった剛介を描いており、父親としての姿も入れてみました。

この作品を書くに当って、当初から決めていたことがあります。
それは、「単なる戊辰の悲劇モノ」にはしない、ということ。
カクヨムのキャッチコピーにしていた拙句は、その思いの現れでもありました。


そうでないと、剛介の「薩摩の将に『よく戦った』と褒めてもらった」などの爽やかな談話との整合性が取れないからです。
その一方で、やはり二本松・会津は「敗軍」の地であり、その感情も無視できない。

明治以降の剛介の心境が御子孫の方にもほぼ伝えられていないこともあり、第三章は私の想像も入った上でのフィクションが多い点は、ご容赦いただければと思います。

剛介が二本松に戻るきっかけ作り

案外難しかったのが、剛介が「二本松に帰郷する」きっかけ作りです。
構想の段階で「誰か二本松藩の人と会津で邂逅させよう」とは思っていたのですが、この人物を誰にするかが悩ましかった。
当初は、中島黄山おうざん(二本松藩の有力商人)も候補に上がっていましたが、史実ではわりと早くに亡くなっていることが判明。
その一方で、二本松藩史を読解している最中に、二本松藩史の列伝で登場していた安部井磐根いわねが、会津若松に出向していたことが別の資料から分かり、彼にキーパーソンになってもらいました。
ちなみに、剛介の帰郷を説得する話材にした「父親が息子の書き写した古事記伝を菩提寺に保管してもらっていた」というのは、私が好きなエピソードの一つです。

また、彼の弟の香木こうぼく(壮蔵)が西南戦争で戦死したのも、その後の磐根に何らかの影響を与えたのではないでしょうか。

余談ですが、弟の香木は陸軍士官学校の入学の際、試験の成績はあまり良くなかったものの、面接で「上官が頼りなかったので、その分まで懸命に戦った」と答えそれで気に入られて合格した、というエピソードが残されています。

豊三郎の名誉を守った?剛介

剛介と共に会津に落ち延びた久保豊三郎の最期ですが、ちょっとした疑問がありました。

第三章の中では、豊三郎が亡くなっていたことが友人(水野氏)の話によって明らかにされています。
実はこれ、紺野庫治氏が剛介に聞き取ったであろう話と一部矛盾しているのです。
紺野氏の著書では

豊三郎は、戦争中足を負傷したが、その足で会津戦に参加しようとして、武谷剛介等と会津に逃れ、会津藩丸山四郎左エ門宅で療養に当り、戦後、藩主のいる米沢に引き上げようとして、途中熱病におかされ、兄の入っていた病院に入院することになったのであった。

出典:二本松少年隊の話:戊辰戦記(カメヤ書店)

とあります。豊三郎は、旧暦11月8日に亡くなりました。
ところが、ここでなぜ今まで誰も指摘しなかったのだろう?という疑問が二つあります。

若松城下で匿うのは無理がある

そもそも、8/23日以降、若松は激しい城下戦が行われていたはずで、のんびりと丸山四郎右衛門(左エ門は誤記と思われます)が自宅で匿えるはずがありません。
何せ、丸山四郎右衛門の自宅は日新館のご近所ですし💦
これは、先にも書きました。

米沢と玉ノ井村の方向が一致しない

もう一つ。大きな矛盾が生じるのが、仮に豊三郎が「米沢に向かった」とするならば、会津から桧原峠などを通って、米沢に抜けるはずなんです。
実際に、水野少年を始めとする多くの二本松藩士がこのルートで米沢に向かっていますしね。

ところが、豊三郎が亡くなったのは玉ノ井村(現在の大玉村)でした。
方向が全く違うのです。

また、亡くなった原因である熱病については、「破傷風」という説があります。
この場合、発症~亡くなる期間までの期間が、10日~2週間程度。
逆算すると、10月下旬に会津を離れようとしたことになります。
この頃、会津藩の人は強制的に猪苗代に身柄を移されていました。
そうなると、会津藩の人間に混じって、剛介や豊三郎は終戦後、猪苗代で軟禁状態にあったと考えるのが自然ではないでしょうか。

そして、作中では「遭難」とぼかしましたが、二本松に帰ろうとした豊三郎は、山中で野犬などに襲われて負傷→そのまま破傷風に罹って亡くなった……というのが、私の推測です。
時期的に、旧暦では既に冬の時期なので、餌に飢えた野犬や狼に襲われる危険性がありましたし。

ただ、武士の子としては不名誉な亡くなり方ですよね。それを知っていた剛介氏は、紺野氏に真実を語らなかったのでは?と思うのです。
それでも、若くして亡くなった豊三郎の末期は、涙を流さずにはいられません。

会津への恩義と西南戦争

剛介が会津で遠藤家の養子に入っていたというのが明らかにされるのは、この小説が初めてのはずです。
御子孫の今村様(仮)にも、つい近年もたらされた情報でした。
そこで妻子もいましたが、会津に残してきたという事実だけが伝えられています。

その事実だけを拾うならば、剛介の取った行動はひどく身勝手に思われるかもしれません。
ですが、彼なりの「妻子を会津に残してこなければならない強い動機」があったはずだと、私は考えました。

その答えが、西南戦争です。

官軍側も勝利に酔いきれなかった西南戦争

西南戦争で、剛介は官軍として再び戦場に立ちました。
ですがそこで対峙したのは、かつての自分の分身とも言うべき、少年兵の姿。
小説なので多少誇張も入れていますが、西南記伝には多くの少年兵が戦った様子が描かれています。
また、私学校の生徒らの暴発から始まったこの戦いでは、二番立ち・三番立ちと言われるように、薩軍サイドは何度も強制的に徴兵を行いました。これらの追加兵は、一番立ちの兵と較べて戦力に乏しかったと言われています。

私自身、剛介に少年を斬らせるのは忍びなくて後半は銃を使わせていますが、同じ様に辛かったであろう人は、薩摩人の「宇都隼人うとはやと」。

  • 私学校に反対して故郷から追放処分

  • 田原坂で許嫁の弟と対峙・斬殺

  • 出水では、故郷を見捨てていったことを年下の子(中原)から非難される

  • 戊辰戦争でも従軍しており、会津での乱暴狼藉が今でもトラウマになっている

といった、苦悩の塊のような人物です。いや、考えたのは私ですが、このような人物がいたとしても不思議ではありません。
会津での乱暴狼藉の話は、「会津戊辰戦記」を参考にしていますが、普通婦女が乱暴された」話も出てきますし、何でこんなに?と思うくらい、あちこちで自害しています。
壮絶な内容では、「介錯を頼んだ嫁が姑に『自害もまともにできないのか』と叱られた」というエピソードも……。
いくら加害者側でも、眼の前で自害されたら絶対にトラウマになったでしょう。

野津道貫の話を聞き、戦友の苦悩を知っていて、自らも薩摩の若者を手に掛けてきた剛介が、果たして今までと同じように「薩長憎し」の空気が漂う会津に留まれたでしょうか。

特別徴募

さらに、作中で触れた「特別徴募」。これが出されていたのは明らかなのですが、実は福島県に対してはもっと早くから「警官を出してほしい」という要望が出されていたのではないか?
そのために、剛介も植木口警視隊に加わっていたのではないかというのが私の推測です。
宮城県の論文で「東北地方の徴募の実態」に触れ、そんな推測が生まれました。

さらに猪苗代町史を紐解いてみると、「抜刀隊」に加わっていた「井深いぶか酒造太郎」という人物が出てきます。
抜刀隊が選抜されたのは植木口警視隊。各種警視隊の中でも、割と早くから戦闘に加わっていたグループです。井深氏の例を見ても、単純に会津藩の上京組だけが植木口警視隊に加わっていたとは私には思えません。
命がけであることを知りながら、「会津の名誉のために徴募に応じた」。そのような警官も幾人もいたのではないでしょうか。

会津への恩義

一方で、剛介には会津に命を救ってもらった恩がある。また、自分自身が薩長に傷つけられてきた身でもあり、会津の人が薩長を憎むのも、十分理解できたでしょう。

九州から戻ってきた剛介は、薩摩人への理解と会津への恩義で板挟みになった。

その彼にできたのは、次世代の自身の子供を会津のために残してくることだったのではないでしょうか。
本人も、この決断を下すのは非常に苦しんだと思うのです。

周りからの非難や、子供からの恨みを一身に受け止める覚悟を決めて、剛介は会津を去った。
現代であれば、非難される行為には違いありません。
ですが、自分に嘘がつけない、それでも会津への忠誠を尽くそうとした彼らしい決断だったと私は感じています。

今村様に確認したことでもありますが、戊辰戦争でひどい目に遭わされたにも関わらず、今村家には「薩摩への恨み節」はほとんど伝えられていないそうです。
二本松藩の成田才次郎の父親が、才次郎によって倒された白井小次郎の墓参りを欠かさなかった話といい(これも、野津大佐の話で使いました)、私が二本松武士に惚れ込む理由がここにあります。

もちろん、全ての二本松藩士がそうだったわけではないのかもしれません。
ですがこのような爽やかさを持つのも、二本松武士の一つの姿なのです。

心境の変化

第三章を書く上で特に難しかったのが、剛介の薩摩人に対する心境の変化でした。
途中、野津道貫との邂逅を挟んでいますが、恩師や朋輩を殺され、国を滅ぼした相手から称賛されても、すぐに仇敵からの称賛を素直に受け入れられるでしょうか。
戊辰戦争後、「長州人(もしくは薩摩人)に説得されて」簡単に考えが変わったように書いている文献も時折見られますが、敗軍側が受けた心の傷はそんな生易しいものではなかったはずです。

それでも命を救われたり、共に苦悩を分かちあうことで、友情や愛情が生まれる場合もあったでしょう。
また、西南戦争に従軍する動機も、たとえ最初が「戊辰の恨み」を晴らすものであったとしても、薩摩の人間と寝食を共にして相互に理解を深めることで、一連の戦争を「国難」として受け止めるようになっていったのではないでしょうか。

ですが、怨讐を乗り越えようとしたことが原因で「一族から絶縁された」などの話は、東西双方に残されています。
それが次世代や更に下の世代まで大きな傷跡を残しました。

第三章に、剛介と野津の会話で次のような場面があります。

「強いて敵を作らねば、己の正当性を誇示できないということでしょうか」
 思わず、皮肉が口をついて出た。
「そうだ」
 野津は、剛介の言葉を否定しなかった。
「それが、戦の始まりの本質であろう」

戊辰戦争も西南戦争も、本質はこの言葉に集約されるのではないでしょうか。

その意味でも、いわゆる「新政府軍」の罪は重かったと言わざるを得ません。

長くなってきたので、後編に続きます。

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©k.maru027.2022

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