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アシタカを超えて 自然と人

大学の講義で「環境生態学」について学びはじめ”自然”という言葉を使うことに対して慎重になってきた。

それを踏まえジブリの映画上映に乗じ『もののけ姫』を見てきた。
「森とタタラ場、双方生きる道はないのか」
アシタカがエボシ御前に向けて放つ言葉である。
タタラ場は森を必要とするが森はタタラ場を必要としない。

サピエンスはそれまで他の動植物と同じく自然環境をうまく利用して生きてきた。様々な革命等を挙げる前に、多数での集団生活が可能であるということがサピエンスの劇的な進化の要因としてあるように思える。核の開発を持って宇宙そして地球環境を変え得る力を手にし、他の動物に比べ自らの存在を優に超える存在・事象にも影響を与えることができる人間はこれまでもそしてこれからも「世を終末へといざなう者」となるのかもしれない。

山も整備・植樹され、都市には緑があふれている。
江戸時代以前から大々的な里山に対する方策がとられていたと聞くが、その後の近現代の活動は人間よがりだと感じる。荒らしたと思えば自分たちを救うために緑を植える。
いじめていたものが、いじめられていたものに対して見せる「自分のことしか考えていない謝罪と償いのための遊び」のようで寒気すら感じてしまう。

そして今思うのは。我々のできる償いは”自然との調和”ではないような気がする。調和というのは結局はすべてが人間のためにあるような物言い、言葉遣いであると感じるからだ。

人間にいいような条件の出せる範囲で出てきた言葉が”調和”なのかもしれない。

アシタカは人間が森や海等”自然”の恵みなしでは生きられないことを普段の狩猟採集の生活から知っていた。
アシタカの村とタタラ場、そしてサン、どちらにも生活があり大和朝廷と非朝廷村、山と住む地域による思想の違いはあるが大きく分けて同じである。

共生に対する捉え方の違いであると自分は感じている。

どちらをとるかではなく、どちらも生きる。共生を目指す。
「生きよ。そなたは美しい。」
「ーともに生きよう。会いにいくよ。」

アシタカを超えてゆけ。

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