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同意をあとから「なかったこと」にして、相手を性犯罪者に仕立て上げたい人達って、明らかにこれを狙っているよね?

この山田太郎議員の問題提起を、我々も含め、人々は本当に理解できているのでしょうか。

多くのフェミニズム側論客たちは「ここで問題として掲げられたようなこと、とりわけ『同意をあとからなかったことにして、遡って相手を犯罪者にできる』ことを求めているわけではない」と弁明していますが、「同意はいつでもあとから『なかったこと』にできるべきである」という意味合いの主張は、現に存在します。

今回は、この主張にどのような思想的原理が働いているかということを中心に置いた上で、論点を整理していきたいと思います。

本来それは「右派・保守派」が求めてきたこと

さて、まずはこの記事のおさらいですが、「私たちは買われた」、「グラデーションレイプ」、「同意はお金で買えない」、「あれは『性暴力被害』だった」などといったフェミニズム側の主張の根底には、何があるのか。

そう、「女は(一夫一婦制ないし婚姻制に基づいた)純潔と貞節を守るべき」という規範を前提として●●●●●、「不本意にその規範を守れなかった」という意識があるわけですね。で、ここがSWASHやsienteなどの「セックスに肯定的な(=そもそもこの規範を支持しない)フェミニズム」と根本から対立する部分になるわけです。

しかし、言うまでもありませんが、この「女は純潔と貞節を守るべき」という理屈は、本来アンチフェミニズムの保守派、つまりこの記事の③の勢力の理屈です。

特にこのPLA Japanという団体は、(旧統一教会の外部組織であるとはいえ)その純潔思想を、特に教育と政治の分野に広めるのに、大きな働きをしてきました。

注目すべきは、旧統一教会の外部団体であるにも関わらず、その主張は『原理講論』はおろか『聖書』の内容にも一切触れておらず、エイズや児童虐待や子宮頸癌ワクチンの副作用などの問題に対して、「性教育の在り方を変える」ことで解決していこうというのがこの団体の政治的主張の大枠であるということです。その具体的な「性教育の在り方」としてアメリカ(の共和党優位な地域)で導入されている「自己抑制教育」を提案しています。

このサイトは2016年頃から更新を停止しているようですが、一番上にある大和市議会での討論の記事はその後の政治的動きにも大いに関わっているものと思われます。

 高津氏は、「子供たちに誤った認識を持たせない性道徳教育を求める請願書」も提出していた。同ワクチンの接種対象は、小学校6年から高校1年生まで。子宮頸がんワクチンを接種しておけば、中学生でも性交渉しても安心という間違ったメッセージを子供たちに送りかねないことを危惧したものだ。
 この請願書は、文教市民経済常任委員会で審議された。
(略)
 侃々諤々の議論の後、請願書に賛成したのは紹介議員の中村市議と佐藤正紀市議(みんなの党大和)の2人で、反対が上回った。25日の本会議で改めて表決にかけられたが、自民党系の新政クラブの市議8人と、みんなの党大和の2人が賛成。
 結局、反対多数で否決されたが、反対した会派(引用者注:今で言う立憲や共産の議員?)の市議からも「紹介議員が陳情書の文意を汲み取って説明するなど表現が不十分だったが、表現が洗練されれば賛成するのにやぶさかでない」、「学校だけの性道徳教育で対処できない。社会全体で問題解決するという文面であれば賛成の余地はある」といった意見が出された。
 東京都・品川区でも「子宮頸がんワクチン接種事業の見直しと、健全な教育を求める」陳情が区民から出され7月1日、同区区議会の文教委員会で審議。表決の前に、陳情者が趣旨説明を行う機会が与えられ、WHOでも教育による対処の重要性も掲げていることを訴えた。継続審議となったが、地方議会での動きを見ても、子宮頸がん予防に「結婚まで純潔を保つ」ことを奨励する自己抑制教育の役割の必要性が認識されてきたと言えよう。

もう一度言いますが、これは本来「保守派・復古主義・伝統主義」の理屈、つまりアンチフェミニズムや右派の一部分による理屈です。

近年の欧米右派では、左派フェミニズムの「グルーミング理論」を逆手に取り、「LGBT教育を行う教育者たちこそグルーマーではないか」という主張も出てきています。一部コミュニティではジャニー喜多川の一件もそのような文脈で語られていると聞きます。

アンチフェミニストの間では意外に忘れ去られていることですが、本来フェミニズムの問題に「右・左」はありません。ネトウヨだってオルタナ右翼だって、自説に有利になるなら「フェミニズム・パワー」を大いに利用するものです。

フェミニズムの中にも、「伝統的性観念・夫婦観・家族観」の復活を望む勢力はいる

そもそもフェミニズムにも、こうした保守派が大枠で望んでいることを事実上支持している勢力は一定数います。特に日本の「下からのフェミニズム」は元々からそういう性質が大いにありました。

そしてこの流れは、世界的にも「アブラハム宗教の復興」とともに顕在化しています。伝統主義の「女性にとって有益な部分」に着目し、「せめてその『伝統的性観念』が女性側に都合のいいように運用されるべき」ということを念頭に置いた主張と論立てが進められています。

昨年の日本の出生数は、とうとう80万人を割ってしまいました。それに対する政府の対策も、フェミニズム・反フェミニズム双方から実効性を疑問視されています。特に反フェミニズム側では、ここぞとばかりに「伝統的性観念」の反転攻勢の策略が動いていると聞きます。

つまり、「同意はいつでもあとから『なかったこと』にできるべきである」というのは、将来的に「伝統的性観念」が復古する可能性を見据え、そうなったとしても自分たちの「正義性」を保てるようにしたい、という思惑があるのです。これも「せめてその『伝統的性観念』が女性側に都合のいいように運用されるべき」ということの一環と言えます。

もちろん、「反フェミニズムは例外なく保守派の傀儡である」と決め打って、「保守派・復古主義・伝統主義」の言葉での主張を試みているだけということは否定できません。というか今でも「反フェミのオタク議員は統一教会とズブだ」などという主張が出てくる以上、後者の可能性のほうが限りなく高いのですが、もし前者のような見立てがフェミニズム(正確には「フェミ騎士」)側にもあるのならば、とても賢い戦略と言わざるを得ません。

対立する2勢力のアウフヘーベン、もしくは、2勢力がそれ以外の声を排除してきた結果

さて、皆さんに知っておいてほしいのは、水面下においてもフェミ側と保守派側でこのようなバトルがあったということです。

当たり前のことですが、保守派とてただただ「フェミニストが憎いから、フェミニズム政策が憎いから」フェミニズムに反対していたわけではありません。彼らは「性観念・家族観を温存して、自由恋愛社会や非婚少子化を抑止する」ためにフェミニズムに反対していたのであり、やはり我々はこのことを念頭に置かなければならないのです。

その対立をアウフヘーベンしたものこそが、「同意のない性的関係はすべて暴力である、そしてその同意は過去に遡って取り消すことができる」なのです。

そして保守派以外の方向からのフェミニズム批判は、双方が論争のテーブルにつかせないようにしていたこともまた、決して忘れてはなりません。

だからこそ、この命題の後半部分を成立させないためには、「伝統的な性観念・夫婦観・家族観に戻すこと」が、一番やっちゃいけない方向性であることは、さすがに皆さんももうお分かりいただけるでしょう。実は私が「インセルや保守派の改正論議への関与こそ要注意」と言ってきたのは、このためなのです。

この精神が今の刑法改正案に盛り込まれるのはかなり困難でしょうが、数年後にまたあるであろう改正論議ではどう盛り込まれるか分かりません。我々はそれまで、現行の「性表現の自由」──それは勿論、積極的自由・消極的自由両方の意味を含みます──を守り抜くことが出来るのでしょうか…?

【10/13追記】統一教会に解散命令が出されましたが

流石に読者の方々にこのような解釈をする人はほぼ皆無だと思われますが、教会の解散で「幕引き」が行われる恐れがあることを見越して、あえてここにも掲載しておきます。

一応言っておくけど、この件を「全部統一教会のせい」としてしまうと却って本質を見失うことになる。日本でこの類の運動を最も大々的にやっていたのがたまたま統一教会の系列だった、ということでしかない。
同様の教義・規範は統一教会だけにあったわけではない。モルモン教・エホバの証人はもとより、殆どの「正統な」キリスト教・ユダヤ教の宗派・教派、そしてもちろんイスラム教にもあるものだ(故にこそ、これらをひっくるめて「アブラハムの宗教」と私は呼んでいる)。『射精責任』の著者ガブリエル・ブレアもモルモン教徒であり、実はその主張は同教の教義の範囲を全く逸脱していない。

統一教会への真剣な批判・敵意・憎悪・誹謗をおこなっているのは、大抵はキリスト教内の別の宗派・教派なのですが、残念ながら私には、同じ穴の狢にしか見えません。