見出し画像

生活編 自分ンチって貧乏だったんだなぁ。と今から考えると思う話。家族をどう捉えるか③

これも今から考えるとよく生活していたなぁ〜と思い返す時があります。
4歳当時大阪近鉄線 長瀬駅の近くに住んでいた時は思いきり昭和40年代を

これも今から考えれば思い起こします。40年前の日本、もちろんその前の大正時代、明治時代まで遡れば当然ですが、庶民の生活は今から考えれば質素そのものでした。

私はこの時代をいわゆる「近鉄長瀬駅時代」と呼んでいます。

夜も10時を過ぎれば私が4歳であったこともそうですが、深夜という感覚でした。
当時は住んでいたアパートには風呂と洗面所がついていませんでした。

そして当時はこれまでご紹介した貧乏家族でしたから、夏は70センチ四方の賃貸入り口で家族全員が順番に身体を洗っていました。

子供も小さかったからでしょうか。

全員でお風呂に行くとお金がかかるからでしょうか。

子供でしたから。この生活行動を当時は「行水」と家族では呼んでいました。とても楽しんでおりました。お湯は瞬間湯沸かし器と言うのが台所についていました。

瞬間湯沸かし器?今ではこの言葉時代も死語ですね。笑
昭和5年の父親は台所を当時「水屋」と呼んでいました。

そして時々銭湯に行くのです。銭湯と言っても今のスーパー銭湯とはスタイルが全く違います。スーパー銭湯は癒しとリラックスを併せ持った機能ですよね。

銭湯は目的が明確です。

身体を洗ったら帰れ! です。脱衣場で座るスペースが少しずつはありましたが。

例の父親が給料をほぼ大半を使って家が騒然とした翌日は大体食卓の上にはあの赤い赤いウインナーがソース味付けよろしく乗っていました。たまにウサギの形でした。

でも当時の私はこのソースのみウィンナーが大好物でこれと白ご飯があれば、何杯でもおかわりできる状態でした。

「今日はご馳走だね。」と普通に母親に言っていました。これも当時子供なりに

気を使っていたのか今から考えると分かりません。トイレ?当然汲み取りでした。

その汲み取りの便槽によく犬が落ちてうんこ犬として子供達は逃げ回っていました。

とてもキャッキャと喜びながら、うんこ犬さんもハァハァ、ハァハァ言いながら遊んでくれていると勘違いして喜んで子供を追いかけていました。

本当に今から考えると、何もない時代は全てを遊びの用途としていた時代です。
ガチの駄菓子屋が本当に沢山ありました。そして子供騙しというか、子供を喜ばそう

としてか面白い仕掛けをする駄菓子屋さんもありました。単純にイチゴ味の飴に紐をつけてそれを束ねて紐一本だけ引かせて、

中にでかい飴がいくつか用意されていてみんなそれを狙うのです。デカイ飴を少し下にズラすとどの紐がその先か分かるのです。

でもそれをやると駄菓子屋のオッさんに思いきり怒鳴れたりします。

そんな時は走って逃げます。次またその店に行くと思いきり私を警戒してたりして。


要は悪ガキでした。その地域も大体生活レベルは皆似たりよったりだった気がしますす。

私の今に通じる様々な考え方、生き方、仕事の仕方、仕事に対するアイデアの出し方はこの時の生活が根源にあると思っています。

キャリアの根源と言ってもいいかもしれないです。

大胆というか、何も怖がらないというか。そりゃそうですよね。
前回お話した。「お前の父親殺しに行ったるわ〜」なんて言うのを電話で言われ

たりしていた時代ですから。近鉄長瀬駅時代はこれの少し前ですが。
いずれまたお話しますが、当時はこの近鉄線の横に住んでいました。

当時は線路と隔てるものがなく、今も地方に行くとそうですよね。だから普通に線路の上でよく遊んでいました。ですから線路の上にバナナの皮、10円玉、

そして小さな石。よく乗せていました。

ある日事件が起きるのです。
それはまたいずれの機会に。

日本がGDPで世界第2位になる前の勢いのあった時代

何も無かったあの時代、何かあるはずと思っていたあの時代。ノスタルジックと言えばそうですが。なんかパワーだけはありましたね。

次回へ、つづく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?