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人と違うものを排除したがる社会を、少し変えていくには。

私は発達特性が豊かな子を育てている。
フリースクールに通う子だ。
学校以外の場所で成長を育んでいるから、通う場所が多く、成長を見守ってくださる方が多くいる。

きめ細やかな配慮とか、プロ意識とか。
「仕事だから」という気持ちだけではできないだろうなという、
愛情も含めた対応を頂いている。ありがたいと思う。

それがあるからかもしれないが。

私自身は母親として「彼が特性があるから」という理由で、子育てに悩むとか困ると思って生活することは、今はほとんどなくなっている。

もちろん、特性は関係なしに、迷い、生活の中で注意することもあり、可愛いなと思って育てている。

たぶん、その特性はもう「面白い性格」みたいなものだと捉えていて、本人もそれで適応しようとしているし、周囲の人たちもそんな彼に適応しているからだと思う。


Wikipediaには、障害(しょうがい)とは、ものごとの達成や進行のさまたげとなること、また、さまたげとなるもののことである。

と書いてあった。

彼は「ものごとの達成や進行のさまたげ」をしようとはしてないし、周囲も彼の事をそんな風に捉えていない。だから便宜上、発達障害と呼ぶことはあるけれど、それは「さまたげになる」という意味での障害とは違うと思ってる。


この記事は2017年のものなのだけれど、とてもしっくりとくる部分があった。

私が彼のことを発達障害だと言う事に対する、なんとなくモヤモヤした気持ちの理由を言い表してくれている気がした。



ここに掲載されていた箇所をちょっと引用させていただく。

「発達障害という概念が広がり、バブル崩壊以降でしょうか。私の周りには“発達障害”と診断される人が急に増えました。しかし、彼らは発達障害とラベリングされる以前は、健常者と共に生活していました。

おそらくかつての日本企業の特性、つまり、年功序列、メンバーシップ型雇用が機能していた時代であれば、その中に包括されていた人たちだったわけです。

ところがそういった人たちが、急速に社会から排除されている。その排除を個人化するための概念として、発達障害というものが非常に活用されている。


ここで、私は発達障害という診断をつけることを否定したいわけではないのだけれど。

私が言いたいのは
「人と違うこと」を細かに取り上げて、そこにラベルをつけて排除するようなことが世の中全体で起きているのではないか。

と思うから。

それは発達障害だけではない。不登校に対する物の見方でも感じる。
コロナ禍で自粛警察という言葉にも同じように思ったし、電車にベビーカーで乗ることにまで苛立ちを感じると数年前にニュースになった社会に対して、やはり同じように思う。

それは、ただ苛立つ人が悪いと責めたいわけでもない。
電車で苛立つ人だって本当は誰もに寛容でいたいのに、抱えきれないストレスを吐き出す先が社会の弱いものになっているのかもしれない。

苛立ちの連鎖が起きてそういうことになっているのかもしれない。
その矛先がどんどん広がっているかもしれない。

この記事を書かれた河合さんはこう言っている。

「障害者ってなんなのだろう」と自問した。「四肢や精神的に問題があること=障害者」ではないんじゃないか、と。

「排除」は私たちの周りのいたるところで起こっている。

高齢者、がんなどの病いを患っている人、うつ傾向に陥った人、育児する人、非正規社員、貧困家庭……、いわゆる「弱者」だけにとどまらず、40代以上の“使えない“と揶揄される人、結果を出せない、能力が低いとされる人……。

「カネを生み出さない人」、「普通より手間がかかる人=ダメな人」とレッテルを貼り、暗黙裡に排除するのが今の日本社会だ、と。

“彼ら”は、決して「建物」に集められ、収容されてはいない。しかしながら、目に見えない“牢獄”に閉じ込められ、十分な選択肢を与えられず、「何?ムリ?だったらいらない」と排除されているのだ。

つまり、生産活動“だけ”に、プライオリティーをおいている社会である以上、「障害者」はいたるところで作られる。

そして、“私”もそのひとりになるリスクを、常に抱えている。

自分が排除されてしまったかのような気持ち。
そうなることへの不安は多くの人が感じたことがあるのではないか。

実際に排除されたわけではないのだけれど、こういう社会だと不安に思い、だから自分がさらけ出しにくくなる気持ち。

コロナへの不安や自粛により、抑え込んだストレスを人それぞれ抱えていると思う。芸能人だって自殺したり、適応障害と診断されることもある。
誰にでも起こりうるのだと思う。

この「弱いものを排除」してしまう場合、本人は苦しさを抱え、余計に適応することへのストレスが増して、上手くいかない悪循環にのってしまうこともある。周囲が変わることで本人が楽になり、良い循環に向かうことも多々あると思う。

「居るだけでいいよ。Beingでいいよ。ただ、あなたが好きだから」ってお互いがお互いにまず言える関係。自分にも言ってあげられるところから始めたいと思うから。

だから攻撃者と被害者に分けたり、排除したい気持ちになってしまうくらい、抑え込んだストレスがある人を攻撃して排除するようなこともしたくないと思う。

そう思うと、結局は許しあうことから始まるのかもしれないね。

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