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【あの時の私へ】子どもの特性を受けいれているお母さんになりたかった。

障害を受け入れるという言い方をしますが、「受け入れる」って言葉自体になんとなく、胸の奥に引っかかる違和感を持つことがあります。

わかりやすいけど。そう思って自分でも使ってますが、もしこれを別の単語に置き換えてみたら、

「自分が日本人である事を受け入れる」

だとしたらどうですか?
なんか、すごく違和感ないですか?


日本人って事を受け入れるとか考えたことなかったし、生まれた時からそうだから、気にもしなかったと思うかもしれません。

もし「日本人であることを受け入れる」という表現が、しっくりとくるならば、きっとその方は日本人であるというアイデンティティに、葛藤した経験がある方なのかもしれないと思います。

受け入れるか受け入れないかを意識すること自体が、それを別のものと考えているような気がして。たぶん、本当に「受け入れているという状態」なら、受け入れるとか受け入れないなんて事にそもそも拘らないような気がします。


というのは、なぜかというと。


私は「わが子が発達の特性があるかも」と疑っていた時に、今振り返ると「障害を受け入れているお母さんでいたい」ということに、こだわっていたような気がします。


第3回【あの時の私へ】発達特性を受け入れているってお母さんになりたかった。

昔の私へのメッセージを送りたいと思います。


最初は、障害という2文字の印象が強すぎて、胸が詰まり押さえつけられるような気持ちがありました。

目の前の可愛いわが子は、本当に目がくりくりして、抱きしめると温かくて髪からは甘いシャンプーの匂いがして、笑い声は良く響いて、たどたどしく「ちなうの~(ちがうの~)」と言い間違える様子に、胸がキュンとする存在。

だから、その障害という言葉と息子はあまりにもかけ離れているような気がして、「なんでこんなに可愛い子が目の前にいるのに、その障害という言葉をくっつけて、受け入れるなんて思わないといけないのだろう」

と思いました。

診断も受けていなかったし、「言葉が遅いから療育は始めた方がいい」とは相談先で言われたけれど、いわゆるグレーゾーンというやつで、これからの成長なんてまだ誰にもわからないのに、その言葉をくっつける必要は、まだないとも思いました。

でも、息子が言葉が遅いことは明らかだったし、クレーン現象や逆さバイバイと言われる行動はありました。

何よりも、毎日ずっと一緒にいる中で、この子には「相手と自分がいて、それぞれが違う人だ」という感覚がないかもしれない、とうすうす感じていました。

発達の特性があるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そして目の前にいる我が子は可愛い。なんとなく人に対する捉え方が私とは違うみたいだ。全部その通りでそれが事実でした。それ以上でもそれ以下でもない。

だから、そのままの子どもを理解すればいい。今はそれが全てなのだから。「受け入れる」なんて言葉のプレッシャーを感じなくてもいいのだと思います。


その「障害を受け入れる」という表現は、たぶん、苦しさを抱えている子どもを救いたいと思う善意の誰かが、「親の障害受容が子どもの苦しさに関係しているんじゃないか」と思って、親子の関係を整理するために付けた表現。

本当の親の心の中は、その「受け入れる」という言葉には収まりきらないほど、複雑でたくさんの気持ちが溢れているから。


「子どもは可愛い」
「母としてその育ちのために何が出来るだろう」
「これから先の成長はどうなるのだろう」
「周りの子と比べると、切なくなる」
「もしかしたら、発達の差はそのうち気にならなくなるかもしれない」
「今から丁寧に育てて、二次障害とならなければただの個性」
「私は今できることを一生懸命やるしかない」

ここには、愛情も、不安も、切なさも、希望も、知識も、情熱も詰め込まれている。

私は、「障害を受け入れている」と言われることが、当時は「親として合格」と言われているような気がしていて、お母さんとしてそこを目指していた気がする。

でも、それは人から見た評価軸のもので、本当のあなたの心の中はこんなにも沢山の想いがあったのだから、受け入れているなんてものを目指さなくてもいいのだと今は思う。

だから、まずはその自分の想いと、目の前の可愛いわが子をみてそれを一番大切にしてほしい。

私は、親の会のスタッフという立場になったときに、参加した講座での関係者や、講演などの場で、いくども「あのお母さんは障害を受け入れていない」と言われている人の話を聞く事があった。

そのたびに、そう言われたお母さんの気持ちに想いを馳せて切なく思った。

支援する立場の方は、ぜひ「受け入れてない」という表現の中に、そのお母さんを入れないであげてほしい。

もし、親のストレスが原因で子どもが苦しんでいるのだとしたら、それを心苦しく思う優しい支援者である方は、ぜひお母さんをその表現の中にいれるのではなく、そのお母さんの気持ちにまずは寄り添ってあげてほしい。

そのお母さんはたぶん「わが子はわが子」として受け入れている。ただ、目の前の可愛いわが子に「障害」というラベルを貼るのは違うと思っているということだ。


そしてあなたも、「わが子はわが子として受け入れている」ことに、自分でちゃんと自信を持てているのなら。

「受け入れてない」と言われるかもしれないことに恐れを感じるのだとしたら、その言葉に必要以上に惑わされることはない。自分をジャッジしてくると感じる言葉を信じるか信じないかは自分で決められるのだから。


ただ、あなたのお子さんのこととは関係ない、私の話として聞いてほしい。
障害のイメージがもしかしたら悪いのかもしれないから、それに対しては、今の私からあの時の私へちょっと伝えたいことがある。


これはわが子もそうだし、他の子も見て、今の私が思うことだ。

発達特性は、あの頃と比べて今はNHKなどで特集を組まれて取り上げられ、ずいぶんとイメージも変わった。活躍している人もたくさんいると思うかもしれない。困りごとがあるから工夫が必要な人。そんなイメージもあるかもしれない。

もちろんそういう人もいるし、そうじゃない人もいる。

私は、特性とは異文化の強めな人だと思っている。まるで国際結婚して生活するような?(したことないけれど)ワクワクとドキドキがある。

今、兄弟2人を育てているけれど、2つの文化の子を育てられるなんて。旦那さんも合わせて3か国、私自身を合わせると4カ国の文化を味わえる生活なのだ。なんて幅広い豊かな多様性の中で育児生活させてもらっているのだろうとラッキーに思う。

発達特性のある子を授かって育てられることは、今は私の喜びだ。

彼は、好きなことの話はとことんする。本心からやりたいと思っていることに一直線でぶれない人だ。そのぶれない様子をみて周りに流されずに貫くこと、とか、何か大切なものを思い出させてもらったりするのだ。

感受性が豊かで、すぐに傷つくけれど、それも含めて一生懸命生きている頑張り屋さんだ。その頑張る姿勢に勇気ももらっているのだ。

そして彼のフィルターでみた世界の捉え方は、面白さと美しさがある。想像を超えた斜め上からの視点で物事を見ているのだ。その発想の面白さに、いつもかなり笑わせてもらっている。


障害であるとか、ないとか関係なく、濃いめの個性をもつ子を育てるには確かにコツが必要だ。そのコツを学ぶには、また親にも努力も必要だ。でも、そのコツを知っていくうちに、自分も人としてブラッシュアップされることにたぶん気付くと思う。

そんな経験をしながら、普段から勇気も、笑いも、大切なものを思い出すこともさせてもらっている。

そんな育児は育自な生活をくれているのは、発達障害の子だったりするのだ。

そしてあの時の私へ。
そんな未来の育児があると思えば、なかなか悪くもないかもと信じて歩いてみて。



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