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私にとっての居場所とは?

居場所とは何なのだろう。
誰かに認められるとか、受け入れられている場所、安心できる場所かなと考えて、ふと思ったこと。自分は自分のことをけっこう雑に扱いがちなこと。

家の中で夫や子どもの居場所はせっせと整えるくせに、自分に対しては二の次だったり適当な感じで済ましてしまう。自分に対して、居心地良い場所を用意してあげていない。自分に対する扱いを怠けがちなのだ。

自分にぞんざいな扱いをするのは、なぜか。それは本当にやりたいことをやっていないからかもしれない。我慢している自分がいないか。言い訳をして、やらない理由を並べて。こうすべきと言い聞かすように、自分を追いやっていないか。

やらない理由は誰のせいでもなく、自分が決めたことなのに。

こうと決めたはずの自分を疑う自分が、まだどこかに残っている。だから居場所がない。納得していない、諦めきれていない自分が「違う」と違和感を叫んでいる。

居場所がないのは、諦めていない自分を認められない私が居るから。もう素直に認めてしまえと言いたいが、認めてしまったら苦しいじゃないか、それは嫌だと駄々をこねる自分もいる。

自分を受け入れられる居場所を、私は私自身につくっていない。

迷っている暇があれば行動すればいいのに。

そういう言い訳のもとで、私は私を甘やかしている。その甘えが居心地良いのも、ある意味、居場所である気もする。だめな居場所として。

弱いなあ、自分……と思う。

こちらに以前書いた、おうちでの居場所の話をリンク載せてます。

私という「個」を見つめる時代なのかも、と、頭に浮かんだ。私自身という個人を受け入れる、引き受けること。他人の意見や情報に流されるのではなく、私がしっかりと自分の意思を持つこと。

居場所がない。この苦しさは、私自身があやふやなことから来ている気がする。
私が今、居場所のことで思い悩むことが以前に比べて薄れているのは、好きなこと、やりたいことに向き合おうと決めたから。今まで言い訳をして逃げていた頃の方が、居場所がなかった。

ただこれは、居場所の不安は薄れるのかもしれないが、今は別の不安にも襲われるのだ。寂しい、と最近よく思うし、夫にも言っている。

私が好きでやりたいことは、私だけの、私を見つめる作業なので……ふと我に返ったときに無性に寂しいのだ。

私自身の寂しさを受けとめる、引き受けることの痛みもある。好きなことを貫くには、勇気がいると思う。

だから、好きなことを通して他者と繋がれたときは、このうえなく嬉しく楽しく感じる。そこを居場所のように感じるかもしれないが、少し違うかもと思った。
私の居場所が私の中にあると感じるから、他者と接しても怖じ気づくことなく、楽しく、場所の共有をできるのではないか。それは「好き」を語れる場所として。

私の中に私自身、「好き」を言える場所があるか。私が私自身を受け入れられているか。
私は、そんな私自身を認めているか。

私の居場所が、私の中にあるのか。他者の意見ではなく、私自身の意思のもとで。

ということを、つらつらと考えてみました。
私の中でまだ明確な答えは出ていませんが。
好きなこと、やりたいことと向き合うことが、私にとっての居場所に繋がる気がします。

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