「心を射抜く論文作法」自他、彼我の垣根を超えて

<課題>

生まれつき四肢に重い障害をもつ乙武洋匡さんが早稲田大学三年在籍時に書いた『五体不満足』という本が評判になりました。乙武さんは「障害は不便である。しかし、不幸ではない。」というヘレンケラーの言葉を引いて、「手足がないのは障害ではなく、特徴である」と述べています。この言葉からあなたが考えるところを、600字以内で書きなさい。

ア. 小論文の1行目に適切と思う題名を書きなさい。
イ. 小論文の最終行に内容を示すキーワードを1、2,3の番号を付して、3つ書きなさい。

 

 乙武洋匡さんが早稲田大学三年在籍時に書いた『五体不満足』という著作が評判になりました。乙武さんは「障害は不便である。しかし、不幸ではない。」というヘレンケラーの言葉を引いて、「手足がないのは障害ではなく、特徴である」と述べています。この言葉からあなたが考えるところを書きなさいという課題でしたが、多くの人の答案が、障害者に対する十分な感情投影に至らない、傍観者然としたものでした。そんな非人間的な姿勢では、如何に美辞麗句を並べようとも、現実味と人としての温かさを欠いた建前論めいた答案に仕上がってしまうことを避けられなかったでしょう。

 18年、あるいは19年の人生経験の中で、障害者の姿を目にすることは決して、少なくなかったはずです。小中学校時代の特殊学級の生徒たち。あるいは街中で見掛けた車椅子利用の人や、白杖を手にした人たち。それを思い起こすことなく本答案を書き始めた人の姿勢こそ、この国の生活環境をバリアフルなものにしてしまっている根源なのです。概括論、あるいは観念論と言われる具体性を欠いた論文は、読み手に対する感情訴求力を大いに欠落させます。テーマ型小論文にせよ、課題文型小論文にせよ、提示された課題(テーマ)に関する身近な例を、具体的な事象を、まずは自身の記憶から抽出すること。これこそが、リアリティある小論文を書き上げる根本なのです。

 当事者として他者の経験をトレースする姿勢は、そのまま、将来、医療に従事する者として求められる基本的な素養となります。千差万別の患者の痛みに対し、どこまで痛みを共有し得るか。ここにこれからの医療が目指す理想の形のひとつがあります。小手先のテクニックの習得や、知識の詰め込みばかりに終始している受験生の中には、そのような人間的資質を大きく欠損させた者がいる。そんな輩の手から、大切な患者の生がこぼれ落ちて行くことを、大学側は是が非でも水際で阻止したいと思っているのです。

<受験生 Мさん答案>

私は乙武さんのこの言葉に対して、非常に感銘を受けた。

<受験生 Kくん答案>

私は乙武さんの差別消去戦略に心揺さぶられる。

 ご多分に漏れず、これらは感想文の書き方です。課題として提示されたもの、そのものを評価対象として捉えてはいけません。本課題で言えば、乙武さんは、なぜ「不幸」ではないというメッセージを発信したのか。その想いの根底にあるものと、乙武さんにそこまで言わしめる社会の在り様を考えることが、考察、執筆の第一歩なのです。

 また、残念なことに、今回、「不便」と「不幸」の違いに正面から向き合った答案は、あまり見受けられませんでした。世の中には似て非なるものが数多とあり、それを混同するところから生じている問題も、実に多いのです。言葉に繊細な感覚を鍛え上げて行くことは、一般社会で雑然と扱われている物事を整理して、分別することの貴重な支えとなります。



<受験生 Tさん答案>

不幸は幸福でないことであるが、不便には当てはまらない。

 あまりにも意味のない論述です。「赤は白ではない」「男は女ではない」と言っているも同然。何ら具体的な定義が為されていません。これをこのまま考察の踏み台にすることはできません。では、「不便」と「不幸」はどう違うのか。そこで、まずは各々の言葉を自分の感覚に当てはめてみて、その違いを実感することです。




<受験生 Nさん答案>

たとえ不便さを感じていたとしても、日々の生活に幸せを感じるのであれば、不幸ではないだろう。

 「不便」さを当事者感覚で捉えていないと、このような無責任で、実感のない論述に仕上がってしまいます。そもそも、生活上の「不便」さを感じながら、「幸せ」を感じるというのは少なくとも身体的障害を抱えている状況下では、なかなか難しいことではないでしょううか。「不便」な田舎の暮らしの中で実感する自然の豊かさ、あるいは欠損した肢体で敢えて挑む競技の醍醐味、といったところが精一杯ではないでしょうか。もし、この論述が、それをイメージして書いたものであるならば、ここに具体例を添えるべきです。受験生の答案で最も多いのが、無感情で、非人間的な論述。その次に多いのが、このように事象を概念レベルだけで捉えた、具体性のない論述です。是が非でも、論述に具体性と感情の起伏を添えるよう心掛けましょう。




<受験生 Nくん答案>

段差が障害なら、なくせばいいだけなのです。彼はスロープを使う人。私は階段を使う人。そんな認識の違いがあるだけなのです。

 

 これはあまりにも大胆、というより短絡的な考えです。例えば駅の階段にスロープを併設するだけで、どれほどの物理的(スペース)負担やコスト、人員が必要であるのか、一切、勘案していない雑多な思考です。これに続く「認識の違いがあるだけ」という論述も、同様に事の重大さを受け止めたものではありません。おそらくは「障害者も健常者も、人間としての価値や尊厳は変わらない」と言いたかったところなのでしょう。しかし、実際そこに至っていません。言葉遣いの誤りや、言葉足らずの論述は、このように書き手の意に反した内容を伝えるものを作り上げてしまいます。闇雲に書くことばかりを積み重ねるのではなく、普段の生活の中の対話から見直して、思考や感情のアウトプット力、伝達力を高めるよう努めましょう。

 

 「優れた指導者が優れた実践を為し得るとは限らない」とは、しばしばスポーツの世界で言われることですが、残念なことに、それは作文、小論文指導においても当てはまるようです。実際、大手予備校と呼ばれる環境においても、指導者の大半が解答例を執筆し得ないか、あるいは提供したとしても、実に拙いケースが大勢を占めるようです。



<K学社提供 解答例>
『乙武さんの差別消去戦略』
 まず重い障害の機能的な不便さは平均的身体を持つ一般人の想像を絶するものであろう。手足のないことの不便さは①並大抵のことではないと思う。乙武さんは鼻や舌を使ってパソコンで文章を書いているらしいが、手や指で打つのに比較すると、その苦労は大きい②のに、その不便さに挑戦し、③征服する努力を続けている。④人間はこういう挑戦を愛する。
 また両親には率直に受容されていても、⑤物心がついた後、他人のいろいろな視線にも曝されたであろう。むろんそれは必ずしも差別と排除の視線ではない。その際立った平均的身体からの逸脱に対しての衝撃もあろう。生活の⑥機能的な不便さ、その苦労への連想からの⑦困惑もあろう。そうなった事情への想像のふくらみもあろう。これは⑧障害のある存在への⑨慣れがなければ消えない。他方、差別の視線も絶対にある。身体の異様さやその⑥機能的な欠如、不足を、他の人自身が受容できずに不幸とみなし、触れ合わず避けようとする不幸排除の視線もあろう。その障害がその一般人自身の家族の誰かに起きなくてよかったと胸をなでおろす、他人の不幸は他人事の視線もあろう。これは⑧障害のある存在への⑩不幸評価を転換させなければ消えない。極度の不便さに挑戦し、姿を曝して身体の特徴への⑨慣れを作り、⑩不幸評価を転換するという乙武さんの差別消去戦略は⑪正しいのである。

 こちらの答案の問題点は以下の通りです。

⑴全般的に障害者への温かい眼差し、及び当事者感覚に欠ける。

⑵乙武氏の障害に視線を向けるだけで、身体障害、知覚・感覚障害、知的障害、精神障害、内部障害など、様々な障害への思考の拡大を欠いている。

⑶障害者に向けられる好奇に満ちた眼差し、あるいは冷ややかな視線への疑問・批判に欠ける。

⑷共に社会に暮らす者として、社会の問題点を捉える視点と、その改善を目指そうとする積極的姿勢を欠いている。

⑸障害者を取り巻く社会の実状への具体的な考察(例…点字ブロック上の放置自転車、車椅子用スロープの少なさ、無音信号の多さ)が為されていない。

①~⑩の指摘箇所については、以下の通り、修正します。

①居丈高(上から目線)な評価 → 「想像を絶する」「容易に想像の及ぶものではない」

②話し言葉 → 「(その苦労が大きい)にも関わらず」

③語法的誤り → 「克服しようとする」

④第三者的傍観 → 「私は同じ人間として、驚嘆を禁じ得ない」

⑤事実認定上の誤り → 「幼い頃から」

⑥無機質な(事物に用いる)言葉 → 「身体的」または削除

⑦語法上の誤り → 「戸惑い」

⑧無感情な表現 → 「障害に苛まれている人たち」

⑨思考の誤り(「慣れ」は無思考のままに身体に染み込ませるもの) → 「(~との)頻繁な触れ合い」

⑩曖昧な表現 → 「『不幸』とういう既成のラベルを引き剥がす」

⑪第三者的傍観 → 「(~に)私は心揺さぶられる」




 

 もう一作、市販の参考書で提供された答案を紹介します。

<K塾提供 解答例>

 医療の現場で考えてみる。病気をし①たり、怪我をしたとき、「これは通常の状態ではない、早く元に戻さなくては」と考えて、治療やリハビリに励むが、これらが不治であっ①たり、残留した場合は②どうだろう。

 このときいくら「ありにままでよいのだ」「それも特徴だ」と考えても実際に不便を強いられ①たり、常に周りの人に迷惑をかけ①たり、他の人に比べて大きく不利を背負わされ①たり、あるいはそれが原因で心身の苦痛に苛まれたのでは、やはりこれは「不便で不幸なこと」だと納得せざるを得ないだろう。

 健康障害が「特徴」となり、「不幸」でなくなるためには、③まだまだ社会的な整備や対処は遅れている。例えば、高齢化社会を迎えた現代にあって、医療でいえば暮らしを支えるための気楽に利用できる在宅医療の拡充や、苦痛を④解消する疼痛治療の開発が急務となる。同時に、近隣に手軽に行けるリハビリ施設があり、日常生活を助ける介助機器が豊富に用意されていることも大事だ。あるいは交通機関など⑤が高齢者の外出を容易にするための工夫など、福祉や保健、他の施策との連動も重要になる。いまのままでは、「不便」や「不幸」が多くの高齢者の生きる希望を奪ってしまうことになりかねない。

 乙武さんのいう「不幸ではない、特徴である」ことが保障されるためには、③まだまだ社会的に医療制度や福祉制度は整っていない。それらを改善することも、これからの医師の役割になるのではないか。


 

 


 思わず絶句…というレベルの稚拙な発想・思考で、且つ、数々の語彙、表現の問題を含んだ答案です。この答案に関して、内容面の問題点は以下の通りです。

⑴全般的に高齢者の問題を扱っており、障害者の生活と、障害者を取り巻く社会環境に対して正面から向き合っていない。必然として、障害者に対する差別や偏見に対しても考察が向けられていない。

⑵「不便」と「不幸」の相違を考えようとしていないばかりか、ほぼ同一のものとして扱っている。

⑶「制度」の改革という基本、役人(国、自治体職員等)の仕事であるところを「医師の役割」として捉えている。

⑷形式上「例えば」と示してはいるものの、読み手に映像喚起させるほどの具体的な把握、論及が為されていない。

 

 加えて、この答案の語彙、表現上の誤りとしては、以下の点が上げられます。

①幼稚な並列表現。内容を並列状態で提示する際は、基本、文を切って、「~。あるいは、」と接続語を介してつなげる。

②問題提起文は字数の無駄。考察の契機は自身の頭の中にしまっておくべき。

③稚拙な語彙。「未だ」が適切。

④物事の全面的「解決」同様、痛みの「解消」は不可能。「軽減」までが限界。

⑤二重主語。述語は「重要になる」。であれば、主語は「連動も」。よってここでは「交通機関などにおいて」と、修飾語として機能させる。

 

 









 本課題の論述における留意点は、以下の通りになります。

⑴障害、及び障害を抱える人たちの日常を第三者的に客観視することなく、当事者感覚をもって考察する。

⑵乙武氏が抱える障害に代表されるような身体障害だけでなく、知覚・感覚障害、知的障害、精神障害、内部障害など、他の様々な障害についても考察の範囲を拡げる。

⑶共に社会に暮らす者として、社会の現状を捉え、その改善策について積極的に考察する。

⑷障害者を取り巻く環境について、精緻な現実感覚から具体的に考察する。可能であるならば、身近な経験を例証として挙げる。

⑸「不便」と「不幸」について、各々、明確に定義し、その違いを明らかにする。

 

 この構想に従って、以下の構成を考案しました。言うまでもなく、小論文は作文や感想文と異なりますが、その最大要件が、社会全体に対して行動を喚起する主張を有しているか否か、という点にあります。この点から言えば、提示される課題は現代社会が抱える何かしらの問題であって、放置、等閑が許されないものであり、また、そこに常日頃から怒りにも似た忸怩たる想いを、言い換えれば問題意識を抱いているか否か、が勝負の分かれ目になるといって差し支えないでしょう。

1. 生活上の「不便」が生じる状況 → 身体、感覚器官、脳、臓器

2.「不便」と「不幸」の相違

3. 今日の社会状況とその背景(原因)

4. 私たちがやってはならないこと(5の逆) → 環境整備、自立援助の不十分さ

5. 私たちが為すべきこと → 使命・責務

<解答例>

「ココロの垣根の向こう側」

 

 私たちの日常は文化的産物に併せて、諸々の身体機能の稼働に多くを支えられている。外界を認識する視聴覚をはじめとした感覚器官。対象物に触れ、それを動かす、あるいは自身、移動・運動して対象物との関係性を変える手足。そして、これら肉体の諸活動を支える脳と様々な臓器。これら身体の一部の不具合で、私たちの生活は「不便」を強いられる。
  「不便」は当人の行動に、永続的ではないものの、相当な部分で多くの困苦をもたらすが、数々の文化的ツールや社会制度がその阻害相当分を補い、行動を支える。これに比して「不幸」は当の本人だけでなく、周囲の人々をも巻き込み、哀しみの底に沈める出口の無い闇である。身体的不全を抱えた人たちを「不幸」と称するのは、良質な同情以上に、障害を補い得る福祉的環境を、温かい社会を創ることを諦めた健常者の傲慢である。「不幸」のレッテルは障害に喘ぎ、それでも「その先」に挑む人たちの尊厳と可能性を抹殺する。
私たちは対等な社会の成員として障害や老いと向き合う人たちと「ノーマライゼーション」の理念の下、共生すべきである。しかし、現状はそこに至らない。「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」の言葉が美辞麗句としてのみ闊歩し、環境整備も、制度、及びその根底の意識改革も大いに立ち遅れている。そんな現状を牽引しているのは経済効率を第一義とする商業主義と、健常を当然視する利己的で偏狭な視野である。しかし、これらを改善したとて、何らかの障害を有することと健常であることが生活便宜上、同列に並ぶことはない。
 ここに私たちの使命がある。ES細胞に先導される再生医療を筆頭に医学は健常な身体を標準値として、そこに近づけることを目指す。生物学的進化の到達点として出来上がった私たちの身体は生活の数多の領域で合理的、且つ効率的な態を成しているのであり、そこに近付けることを放棄し、福祉の視点同様に「個の多様性」として等閑視することは、医学の敗北であり、諦めではないか。同様に取って付けただけの社会貢献事業や、利己的な目的に由来する奉仕活動、自立援助だけで慢心することは、障害者に対する等質感、及び、リアリティの欠損以外の何ものでもない。
 パラリンピック出場のアスリート達の奇跡に視聴者としてささやかな感動を覚えるだけでは、私たちは共に社会に暮らす者として失格だろう。歩くこと、跳ぶこと、話すこと、見つめること。そんな何気ない行動が当たり前ではない人たちがいる。これが全ての人の当たり前になるよう、私たちは真に温かさに満ちた社会環境の構築に、そして、手を差し伸べることに、俊敏であらねば、また、懸命でなければならないのである。


1.商業主義 2.共に暮らす 3.温かさに満ちた社会

               解答例作成 現代文・小論文講師 松岡拓美

 

 社会的弱者である障害者、高齢者、経済的困窮者に、どこまで感情的に寄り添えるかは、医師として、患者の痛みを等身大で受け止め得る医師たり得るか否かということに直結しています。面接も含め、医療系小論文では、正に人格そのものが問われていると言って、過言ではないのです。

                                                                                                 studyliving

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