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間違いだらけの現代文 追補②

〈例題2〉 
 「自由であることの意味はそう簡単なものではなさそうです。確かに、特定の選択肢を強制されるのではなく、さまざまな選択肢の中から自分の判断で選択できることの方が、自分にとって、より満足のいく結果を実現してくれるように思います。そういった意味では、誰にとっても、より自由である状態の方が望ましく思われます。
 たとえば登校時の服装についていうと、学校から指定された制服ではなく、自分の判断で決めた服を着ていく方がお洒落を楽しむことができるし、服装に、より関心をもつことができそうです。そして大切なのは、服装を通じて、ほかの誰かとは違う自分を表現することも可能になるという点です。もちろん、こうしたことは学校を離れた社会ではごく当たり前に行われており、本来取り立てて問題にされることでもないように思われます。
 いずれにしても、自分をその他大勢の中に埋没させてしまうのではなく、自分が自分であるためには、「自由である」ことは欠くことのできない前提だと思われています。だからこそ、私たちは自由を、私たちの社会においてもっとも基本的な価値の一つとして尊重してきたともいえるでしょう。
 しかし、「自由である」ことがこのようなものだとすれば、私たちは「自由である」ことによって、いやおうなく自分というものを他者に評価されてしまうといえるかもしれません。たとえば、制服を着ているときであれば、服装によってその人の個性を判断しようという人はいないでしょう。ところが、私服であれば、そうする人が出てきても不思議ではありません。

(問)「『自由である』ことによって、いやおうなく自分というものを他者に評価されてしまう」とあるが、これは具体的にはどのようなことか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
①自由を行使することで、往々にして他者と異なる人間性が明らかになり、目立ってしまう。
②さまざまな服装の生徒が存在することにより、服装がその思想の表現と感じられてしまう。
③選択の余地が生じることで、選択の結果がその者の人格のあらわれととらえられてしまう。
④自由を行使すること自体が他者から奇異の目で見られ、否定的な評価を受けてしまう。
⑤たとえ好んで学生服を着ていても、嫌々ながら着ているものと勘違いされてしまう。
                                           (立教大学 観光学部 2016年)

 


 「自由」には常に責任が伴います。自らが望む権利を求める際には、その前提として義務の遂行が求められることと同じく、人間の自由には、常にそれと同じ分だけの不自由が求められるのです。

 現代文の文章の中で展開される内容のほとんどが、突飛な発想や、奇怪な思考に基づいたものではなく、誰もが大いに共感・賛同し得るありきたりなものばかりです。よって、その理解には、本文以前に、世の中の常識にも近い、物事に対する一般的な考えを援用することが効果的です。ことわざの引用もこれと同じ。人間はひとつの物事を、ひとつの言葉で理解するのが苦手です。何かしらの話を理解するには、それに類似した、別の領域の内容を類例として、理解の助けとするのが、最も手っ取り早いのです。

 「学校から指定された制服」と私服(「自分の判断で決めた服」)の対比に着目するまでもなく、「自由」という概念は、難なく理解できるでしょう。「自由」は、自らが望んだ行為が遂行できる状態です。この核心的な内容そのものを逆にしたのが⑤です。「嫌々ながら着ている」の「嫌々ながら」が、自らが望んだ行動の逆、すなわち、不自由な行動に相当します。少なくとも「自由」の下、自分好みの服装を身に付けている人に対しては、周囲からも同様に、自身の意のままの服装を着用していると映るはずです。

 傍線部中でも、概念範囲が広く、容易に実感を抱かし得ないのが「自分というもの」です。こちらは人間が持ち合わせている身体・頭・心の全てに及びます。考えてもみれば、確かに服装は、その人の日常の行動パターンを明らかにすることもあるでしょうし、それを着る人の趣味・嗜好(=心)や、マナーなども含めた、社会生活に対する考え方などを表象することもあるでしょう。この「自分というもの」という言葉が、身体・頭・心の全てに及ぶところを、「思想」、すなわち、頭だけに限定した間違いの選択肢が、②です。本文、あるいは現実上、無限定の内容を限定するのも、逆の内容に変換した間違いの選択肢作りの中に含まれます。

 次いで、出題者が注目した傍線部の内容は「他者に評価されてしまう」という部分です。私たちの言語感覚の名詞志向の強さ(名詞は漢熟語で示されることが多いため、視覚的インパクトが強い)に反し、内容面での重要度は、動詞的要素の方が圧倒的に高く、よって傍線分の解釈の焦点も、人間の行為や、出来事など、動詞に置かれることが多いのです。端的に言えば、何かしらの内容を示す傍線部の中で、主体や対象に併せて、行為や作用を示す部分に注目すべきだということです。

 この「他者」からの「評価」ですが、「自分というもの」同様に、プラス・マイナスに限定されない無限定の内容です。こちらについても、本文上の言葉を眺めるだけでなく、現実的に考えてみましょう。「服装」に対する「他者」からの「評価」は、好意(プラス)的な場合も、否定(マイナス)的な場合もあることが想像できるでしょう。場に相応しい服装には、周囲の人々は好感を抱くでしょうが、その逆の場合には、周囲は怪訝な反応を見せるはずです。このように、現実感覚を援用して、漠然とした概念を具体化することは、読解における最も重要なスタンスのひとつです。

 プラス・マイナスの何れにも限定されない内容を、傍線部中の「評価」という言葉が持ち合わせているところを、マイナス内容に限定したのが④です。こちらは、「否定的な評価」と、「他者」からの「評価」をマイナス内容に限定しています。


 難しいのが、①です。こちらは前後(後→前)のすり替えで作成された間違いの選択肢で、その作成パターンに対する認知がなければ、まずもって間違いであることを見抜けない高尚な選択肢です。傍線部中には「他者」からの「評価」が捉えられていました。簡単に言えば、傍線部中には、自分の意のままの服装を身に付ける者と、それを評価する側の二者の主体・対象関係が捉えられているのです。正解③には、服装を「選択」する側と、それを人格のあらわれとして「とらえ(る)」側の両者が捉えられています。傍線部の解析は、表面上の言葉ではなく、中身、すなわち、言葉で示されている内容の構成要素への着目が基本になります。ところが、①では、「人間性を明らかに(する)」側、すなわち、「目立ってしまう」側、つまり、自分好みの服装を身に付ける側しか捉えられていないのです。本文中、主体・対象の二者で捉えられている内容が、一者のみで把握されているところから、双括(二者)内容の欠落(一者のみ)と判断しても差し支えありませんが、厳密に言えば、こちらは事象の時系列に着目して、正解である後発の事象を、それ以前の事象にすり替えた間違いの選択肢です。自分好みの服装が華美に過ぎる場合などは、①が示す通り、周囲から「目立って」しまうでしょうが、それは周囲から「評価」される前のことなのです。

 このように、一部の高尚なレベルの間違いの選択肢を見破るには、間違いの選択肢の作成パターンに対する認識が、中でも、本文、あるいは、現実の中で、①対立内容②主体・対象③前後内容の三つが、すり替えの対象になりやすいことに対する構えが必要になります。

 この設問に関する、一般予備校講師の講釈を見てみましょう。まずは、本文中、接続語を中心に施された、真の理解を遠ざける記号操作的なマーキング(太字部分)から、ご覧ください。

 「自由であることの意味はそう簡単なものではなさそうです。確かに、特定の選択肢を強制されるのではなく、さまざまな選択肢の中から自分の判断で選択できることの方が、自分にとって、より満足のいく結果を実現してくれるように思います。そういった意味では、誰にとっても、より自由である状態の方が望ましく思われます。
 たとえば登校時の服装についていうと、学校から指定された制服ではなく、自分の判断で決めた服を着ていく方がお洒落を楽しむことができるし、服装に、より関心をもつことができそうです。そして大切なのは、服装を通じて、ほかの誰かとは違う自分を表現することも可能になるという点です。もちろん、こうしたことは学校を離れた社会ではごく当たり前に行われており、本来取り立てて問題にされることでもないように思われます。
 いずれにしても、自分をその他大勢の中に埋没させてしまうのではなく、自分が自分であるためには、「自由である」ことは欠くことのできない前提だと思われています。だからこそ、私たちは自由を、私たちの社会においてもっとも基本的な価値の一つとして尊重してきたともいえるでしょう。
 しかし、「自由である」ことがこのようなものだとすれば、私たちは「自由である」ことによって、いやおうなく自分というものを他者に評価されてしまうといえるかもしれません。たとえば、制服を着ているときであれば、服装によってその人の個性を判断しようという人はいないでしょう。ところが、私服であれば、そうする人が出てきても不思議ではありません。
『ゼロから覚醒 フレームで読み解く現代文』かんき出版

 


 おそらく、どんな文章においても、徹底して、指示語、接続語、及び、打消しの「ない」にマーキングを施すことを徹底しているのでしょう。指示語は、既に読み手の方に理解された内容の明示を割愛するための言葉であり、わざわざ注意しなくても容易に理解し得る内容の代替語として用いられます。重要な言葉ではありません。接続語に関して言えば、内容相互のつなぎ部分であり、いわば余白にも近い言葉です。重要なのは、内容そのものであって、そのつなぎではありません。実際問題として、要約の際には、一番最初に捨象される言葉です。あるいは、雑多なたとえ話で言えば、車のウインカー(方向指示器)に相当するのが接続語。しかし、私たち日本語のネイティブなら、事前に内容の方向性を示されなくても、内容そのものの把握も、前後の内容の関係性の把握も、容易に為し得るはずです。これは打消しの「ない」を伴う叙述に関しても言えることです。ところが、件の講師は、さも高等なテクニックであるかのように言います。

 このように「でない」という否定のカタチ(フレーム)に注意することによって、文章を「分ける」ことができます。

 元より、このように、さして重要でもない言葉に、形式的にマーキングを施すことは、肝心の内容の理解を遠ざけてしまうのではないでしょうか。現に、この文章において、最も重要である言葉は「自由」です。それが、これら記号操作的なマーキングで遠のいてしまってはいないでしょうか。

 また、指示語、接続語、打消しの「ない」以外の部分へのマーキング(網掛け部分)に関しても、特段、必要性のない冗長なものです。「自由」の対極の不自由に相当する具体例が、「特定の選択肢を要求される」ことであり、服装で言えば、「学校から指定された服装」でしょうが、ここにわざわざ、線引き(マーキング)を添えなくても、これらが不自由な状態であることは、最低水準の日本語力しか持ち合わせていない者でも容易につかめることであり、少なくとも大学受験レベルで求められている水準ではないでしょう。感情と現実感覚を失った、単なる視覚情報としての言葉の扱いの現れが、これら無駄で、且つ、冗長なマーキングなのです。加えて、単に線引きや言葉への囲みに終始する態度は、本文に対する自分の言葉による積極的な解釈の姿勢を阻害します。この文章の深層的な内容は、〈自由の行使には常に責任が、すなわち、他者からの評価が伴う〉ということなのですが、ここに至るには、自分の言葉の積極的な導入と、現実感覚の援用、すなわち、現実社会の在り方を投影することが求められるのです。

 この姿勢は、選択肢の解析においても求められます。しかしながら、記号操作的な態度に終始する指導者は、大いに倒錯した見解を吹聴します。選択肢の判別の最大の拠り所は「書いてある」か否か。文章、すなわち、言葉を表面的に眺める態度で、選択肢の正誤を判断します。

 ①は「他者と異なる人間性が明らかになり、目立ってしまう」が誤りです。他者と異なるかどうかについては本文では説明されていませんでした。
 
 例えば、誰もが同じ「制服」を身に付けていたなら、特定の人物が「目立ってしまう」ことはないでしょう。それが私服、つまり、思い思いの服装を各人が「自由」に身に付けている状態では、逆になることくらい、誰でも想定できるはずです。「自由」な状況下では、各人の個性が発揮され、周囲との違いが明らかになる、すなわち、「目立ってしまう」のです。「書いてある」ことの隙間にある、この程度の内容の想定・補填さえ阻害するのが、無機質な「書いてあることをそのまま読む」「書いてあることをそのまま答える」という一般指導者たちが推奨する態度なのです。

 ②は「さまざまな服装の生徒が存在することにより」が誤りです。「さまざまな服装」は具体例に過ぎず、「選択の余地がある」ことを説明できていません。

 選択肢において、具体性が高いほど間違いである確率が高まります。正解を目立たせないために、出題者は正解の選択肢にこそ、曖昧な表現を用いるのです。この点を、さらに言えば、正解の選択肢には万全な解釈は施されず、いわば、完全なる解釈の一歩手前の近似値的な解釈に止めがちなのです。その意味からすると、「正しい」ものではなく、「間違っていない」ものが正解となると言えるでしょう。ここに他の選択肢の吟味をそこそこに、正しいと思われる選択肢に飛び付くのではなく、間違いの選択肢を最後まで、徹底的に消去する必要性がありますが、これを「消去法」と特別視して、「『消去法』は時間が掛かるため、効率が悪い」などと言うのは、これら正解の選択肢の傾向や、間違いの選択肢に施される高尚な加工に、認識が及んでいないことを意味します。

 但し、選択肢において、具体性が高いほど間違いである確率が高まるという自然の理は、本文の解釈を具体例のみで済ませることが許されないことを意味しません。実際、本問でも、各人が「さまざまな服装」を身に付けている状態は、「自由」を行使している状態に他ならず、「選択の余地がある」ことに他なりません。件の講師は、なぜこれを「『選択の余地がある』ことを説明できていません」と言うのでしょうか。

 ④は「他者から奇異の目で見られ、否定的な評価を受けてしまう」が誤りです。本文にはこのような記述はありませんでした。

 こちらも①と同様、「書いてあるか」否かの表面的な判断に止まっています。傍線部中、示された「評価」を見逃してでもいるのでしょうか。言うまでもなく、無限定の内容を限定することも、間違いの選択肢の作成パターンの常套であることなど、知る由もない。つまり、場当たり的な設問解析に終始し、他の設問と絡めて体系化する姿勢など、一切、持ち合わせていない(ご本人は、自身の「再現性」を実現したと豪語していますが)のでしょう。
 
 ⑤は「嫌々ながら着ているものと勘違いされてしまう」が誤りです。これも本文に書かれていない内容ですね。

 間違いの選択肢の代表が、本文や現実の逆の内容に変換したものであることを知らないばかりか、「嫌ながら~(自分好みでない服を)着ている」ことが、「自由」の逆の不自由な状態であることさえ、解釈できない。正に思考が「書いてある」ことのみに止まっていることを示しています。

 さらに倒錯した講釈は続きます。

 ①と④には「自由を行使する」とありますが、「自由を行使する」ことがどのような意味であるかに言及できていません。内容が不十分であるという点でも、正解にはならないのです。

 先に上げた、正解の選択肢の特質を再度、説明しましょう。出題者は正解の選択肢を目立たせないために、敢えて存分な解釈を、正解の選択肢に施さないのです。不可欠な関係の下に成立している双括(二者)内容を覗いて、些少の内容の過不足や、説明の不十分さは、正解として許容されるのです。逆に、間違いとして消去すべき選択肢には、圧倒的な誤りが挿入されており、その内容は、先に説明した通り、何かしらの点で、本文や現実の逆の内容であることがほとんどなのです。

現代文・小論文講師  松岡拓美

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