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間違いだらけの現代文 追補①

〈例題1〉 

 カメラを被写体に向けさえすれば、とりあえずどんな映画でも撮れる実写映画とは異なり、アニメーション映画は被写体をふくめて、すべてを一からつくりださなければならない映画である。それゆえ一般に製作時間と製作費が実写映画にくらべて余計にかかることになっている。そのためアニメーション映画では、その主要素たるキャラクターを映画館外で商品化し、その人気と売り上げによって製作費の回収をはかり利益を上げるという商慣習が一般的である。その意味でアニメーション映画はまずキャラクターありきの表象世界という傾向が強い。したがってアニメーション映画においては一般に主要登場人物(擬人化された動物やロボットをふくむ)を中心にフレーミングや画面構成がおこなわれることになる。

(問)「アニメーション映画においては一般に主要登場人物(擬人化された動物やロボットをふくむ)を中心にフレーミングや画面構成がおこなわれる」の理由として最も適切なものを次の中から一つ選べ。

①実写映画と異なり、アニメーション映画はすべてを一から作り上げるため登場人物への思い入れが強くなることが多いから。

②一般にアニメーション映画では、登場するキャラクターを映画館以外で商品化することで興行的な成功を得ようとするから。

③等身大の俳優が活躍する実写映画に対して、アニメーション映画は、製作者自らが作り出したキャラクターを強調し商品化して、利益を上げる必要があるから。

④実写より制作にコストがかかるアニメーション映画では、製作者自らが作り出したキャラクターの存在を前提とした表象世界であるから。

⑤予算のかかるスターを起用した実写映画と同様、アニメーション映画は、手間暇かけて制作した主たるキャラクターの活躍を中心に描かれることになるから。

                                                              (国学院大学 日本文学部 2020年)

 

 実写映画とアニメーション映画を対比しながら、アニメーション映画について考察した文章です。言うまでもありませんが、人の評価・判断は何かしらの比較を前提に為されます。「大きい人」と評する際、その一方で、私たちは必ず小さい人との比較の上で言っているのであり、また、「あなたは美しい」と言う時、人は醜いものも、併せて、必ず見ています。

 

 本文上の言葉で言えば、「異なり」と表された実写映画とアニメーション映画の対立関係を変換した間違いの選択肢があります。⑤の「同様」です。これでは実写映画とアニメーション映画が同類のものとなってしまいます。関係性変換の手口で作成された間違いの選択肢です。

 ⑤に次いで、①を誤りとして消去しますが、それには、傍線部の内容の解読に併せて、この設問が理由説明であることを意識しなければなりません。傍線部の「主要登場人物を中心にフレーミングや画像構成がおこなわれる」は、ストーリー展開を含め、主役のキャラクターが目立つような画像構成が行われるということです。端的に言えば、主役が目立つよう工夫されるという程度のことに過ぎません。そして、その理由は、主役のキャラクターを「商品化」し、「利益をあげる」必要があるということです。ぬいぐるみやステッカー、キーホルダーなどを連想すれば、納得できるはずです。特に接続語や文末表現などに着目しなくても、叙述内容を現実化しながら受け止めたなら、容易に把握できる内容です。

 キャラクターの「商品化」や「利益をあげる」という傍線部の理由に相当する行動ですが、これは身体を伴う具体的な行動です。それを①では、「思い入れが強くなる」との動きに変換していたのです。選択肢判別の基準は、行動の身体・頭・心の相違。小説の設問の中で頻用されるスケールです。

 

 

 ところが、とある現代文講師は、本文の解読や、この①の問題点について、自著(参考書)の中で、以下のように説明します。

 カメラを被写体に向けさえすれば、とりあえずどんな映画でも撮れる実写映画とは異なり、アニメーション映画は被写体をふくめて、すべてを一からつくりださなければならない映画である。それゆえ一般に製作時間と製作費が実写映画にくらべて余計にかかることになっている。そのためアニメーション映画では、その主要素たるキャラクターを映画館外で商品化し、その人気と売り上げによって製作費の回収をはかり利益を上げるという商慣習が一般的である。その意味でアニメーション映画はまずキャラクターありきの表象世界という傾向が強い。したがってアニメーション映画においては一般に主要登場人物(擬人化された動物やロボットをふくむ)を中心にフレーミングや画面構成がおこなわれることになる。

設問は傍線部の理由を説明する問題です。傍線部の前で根拠が説明されています。これは根拠が三つ連なる論証の連鎖だということがわかれば正解できるでしょう。

①は「登場人物への思い入れが強くなることが多い」が誤りです。製作者の思い入れについての記述は、本文にありません。

                                          『ゼロから覚醒 フレームで読み解く現代文』かんき出版 より

 


 大半の指導者と同様、内容そのものを示すことのない接続語に着目するだけでなく、本文の大半に冗長に線引きして、本文に書いてあるままを機械的になぞっています。これで本当の理解に至るのでしょうか。

 本当の読解には、まず、雑多な内容を削ぎ落し、主要な内容だけを抽出する、要約(要約の際の焦点は、常に単語レベルに習作されます。この点で言えば、本文上に長々と線引きするような読み方は、まるで「腫(は)れ物」に触るかのように、本文の叙述を眺める姿勢と相違なく、要約から最も遠い行動と言えます。)の姿勢に加えて、「書いてある」ことを、そのままの言葉ではなく、読み手自身の言葉で、積極的に言い換え(噛み砕き=平易化)ることが必要です、ある意味、翻訳にも近い、言葉の言い換えで、はじめて文章は、私たちに近付いて来ます。また、読解においては、時に、省略されている内容を補填することも必要です。加えて、言葉は全て、曖昧な概念体であり、実物を伴わないため、言葉、すなわち、「書いてある」ことだけでは、具体的な理解に至りません。「書いてあること」の本当の理解のためには、抽象概念に相当する具体例を、読み手自身の経験からサンプリングすることが必要です、そうすることではじめて、言葉、すなわち、文章はリアルな映像を伴って、私たちの理解や共感に訴え掛けるものとなるのです。ちなみに、この抽象概念に相当する具体例をサンプリングすることを演繹(えんえき)と言い、論理学の基本的な営みとして、人間の思考を支えています。

☆読解には

   ⑴要約 →内容の取捨選択

   ⑵表現の言い換え →平易化

   ⑶省略内容の補填

   ⑷言葉の具体化(経験の想起 =演繹) → 映像化

 が不可欠。

 件の講師の参考書における説明に戻りましょう。まず、選択肢①の問題点に関して、「書いてあるか否か」の表層的な思考に止まっています。直接、「書かれていない」からといって、その選択肢の内容が誤りであるとは言い切れないのですが、彼にはそういった認識はないようです。「書いてある」ことを、そのまま目で負えば、理解に至ると考えています。読解も、選択肢の正誤の判別も、断じて、そのような表面的な行為に止まるものではありません。言葉は人間の思考や感情の、さらに言えば、現実の断片的表象に過ぎません。「枕を濡らした夜もあった」を「悲しくて泣いた」とすることは、至って正しいのです。「書いてない」内容が添えられているがために誤りとなる選択肢は、大学入試において、一切、ないのです。

 

 ②の正誤の判別には、現実感覚の援用が必要です。「書いてある」ことを視認するだけの表層的な解析では、この選択肢の正誤を判別することなど、到底、できません。「キャラクター」を「商品化」することに関しては、本文で叙述されている通り、明らかに正しいのですが、これだけで「興行的な成功」を得ることはできません。そもそも映画は、如何に多くの人たちに鑑賞してもらうかに興行的な成否が懸かっています。つまり、「興行的な成功」を保証するものは、何より観客が支払う鑑賞料であって、キャラクター商品の物販における収益は、「興行的な成功」のを支える一部に過ぎないのです。この「興行的な成功」が、③④のように「興行的な成功」の一部である「利益」とされていたならば、正解として許容されます。しかし、「キャラクター」を「商品化」することで、「興行的な成功を得よう」とすると、「キャラクター」の「商品化」が、「興行」成績の全てを賄うことになってしまうのです。厳密に言えば、「~商品化することで」の「で」が誤りです。部分的な内容を全体的な内容に変換した間違いの選択肢で、これが類推内容を含む「でも」であったなら、正解となり得ます。

 

 この②に関して、件の講師は、以下のように説明します。

 ②は「興行的な成功を得ようとする」が誤りです。本文には「利益を上げる」と書かれていました。

 

 指摘内容自体は間違っていません。しかし、「興行的な成功」と「利益を上げる」ことは、どう違うのかということについて、明確な説明が為されていません。一般の問題集・参考書の説明の大半が、このように選択肢の内容の一部を摘出して、「〇〇ではない」と、単にダメ出しをするに止まっています。また、多く問題集・参考書で説明する側に、選択肢の正誤の差異が圧倒的なものであり、何らかの点において、間違いの選択肢が正解要件の逆の内容を有しているという認識に至っていないため、些少の内容の相違で、間違いとしていることが窺えます。真相は違います。正解と不正解の相違は、いわば白と黒。圧倒的な誤りが、間違いの選択肢には挿入されています。

 


 最も難解な間違いの選択肢が、③です(正解は④)。こちらは内容の前後のすり替えによって作成された間違いで、その作成パターンを知らなければ、明確に間違いとして消去し得ない厄介な選択肢です。傍線部の「主要登場人物を中心にフレーミングや画像構成がおこなわれる」は、主役のキャラクターが目立つような画像構成や展開が為されるということでした。主役が目立つように、製作サイドが工夫を凝らすということです。そして、膨大な予算を費やして制作されるアニメーション映画においては、主役のキャラクターを「商品化」し、「利益をあげる」必要があることに由来していました。この主役のキャラクターを「商品化」し、「利益をあげる」という傍線分の理由に相当する内容は、製作サイドの行動に値します。正解④は、この点を踏まえ、「キャラクターを~商品化して、利益を上げる」と、本文そのままの内容が捉えられていました。ところが、これが③の方では、製作者がキャラクターの「存在」を「作り出した」ということに止まっているのです。製作者がアニメーション映画の主要人物のキャラクターを「作り出す」のは、そのキャラクターを商品化して、映画収益の一部として利益を上げるの行動です。これに対して、正解④は、製作者がキャラクターを作り出したの行動である「商品化」や「利益を上げる」を捉え得ています。但し、このような行動の前後をすり替えるという間違いの選択肢が、大学入試現代文では頻繁に活用されていることを認知していなければ、このような正誤判別を為し得ることは不可能です。この解析に至ることなく、正解として④を選べた方は、「わかった」のではなく、単に偶然、正解を「当てた」に過ぎません。

 



 間違いの選択肢の作成パターンは無限ではありません。基本は、まず、本文、あるいは、本文の内容に関連する「書かれていない」現実を出題者が逆の内容に変換するパターンです。

 これに加えて、出題者が本文の内容や現実を逆の内容に変換するまでもなく、本文中に当該内容に比較すべき対立内容や、当該内容に関連する紛らわしいながら、確実に相違する主体や対象、あるいは、その前後に相当する内容が窺える際は、それにすり替えて間違いの選択肢を作成することが可能です。出題者としては、こちらの方が間違いの選択肢の作成として、容易であることに加え、正解と異なる内容ながら、その主体や対象、あるいは、前後に相当する内容も本文上、「書いてある」ため、内容分別を為し得なかった受験生がダマされやすいという点で、これら内容のすり替えで作成された間違いの選択肢は、出題サイドとしては、格好のものとなります。

 そして、もう一つ、厄介な間違いの選択肢があります。双括内容の欠落、あるいは、逆に、単一内容を双括化した間違いの選択肢です。通常、本文の内容の把握において、選択肢上で、若干の内容の過不足を生じることは許容されます。極端な例で言えば、「先程、僕は朝食を済ませた。」という内容を、「朝食を食べた。」とすることは、誤りではありません。但し、設問が把握を求める内容が、対等な重さを有する二者、存在して、その双方が揃ってはじめて機能する内容である場合には、その一方だけの把握で済ませることは許されないのです。「ディズニーランドの主役は、何と言ってもミッキーとミニー。」とされていた際に、「ディズニーランドの主役は、何と言ってもミッキー・マウス。」とするのは片手落ちなのです。また、逆に、「富士山は日本最高峰の山だ。」のように、唯一の内容であるところに、「富士山と大山は、日本最高峰の山だ。」と、二つの内容を揃えることも許されないのです。

 以上が間違いの選択肢の全貌です。これ以外の手法で、間違いの選択肢が作成されることは、一切、ありません。

☆間違いの選択肢は本文、あるいは現実(書いてない)の

  ⑴ 逆の内容への変換

  ⑵ 分別内容へのすり替え

     ①対立内容

     ②主体・対象

     ③前後内容

  ⑶ 双括(総括)内容の欠落、または、単一内容の双括化

でのみ作成される。

 

 選択肢③についての、件の講師の説明は、以下の通りです。

 ③は「等身大の俳優が活躍する実写映画」が誤りです。本文を読むと、実写映画は「カメラを被写体に向けさえすれば、とりあえずどんな映画でも撮れる」ことはわかりますが、「等身大の俳優が活躍する」かどうかはわかりません。「等身大」とは、「誇張や虚飾がなく、ありのままである様子」といった意味です。

 

 実写映画の登場する俳優(キャスト)が「等身大」であるということに、それほど特別な意味はありません。アニメーション映画に登場する人物が虚構上の存在であるのに対し、実写映画に登場する人物は、実在する人間だということ以上の意味はありません。それを、辞書的な言葉の解釈を引き合いにして、「誇張や虚飾がなく、ありのままである様子」として、何が見えて来るというのでしょう。事実、実写映画に登場する人物は、実写であるがゆえに、「誇張や虚飾がなく、ありのまま」であると言って差し支えないのではないでしょうか。一見、複雑怪奇に思える言葉の多くも、その深層においては、至って簡単なことしか意味していません。それを実感から最も遠い微細な概念でより難解なものに仕立て上げることを概念操作と呼び、妄想や現実感覚を失った妄想にも近いものとして、聡明な人たちは嫌悪します、しかし、この方の真骨頂は、正にその概念操作にあるようです。

                                                                         現代文・小論文講師  松岡拓美


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