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間違いだらけの現代文⑶

〈例3 センター本試験 2003年『寝台車』〉

 カツノリくんはいつもと同じように、観音開きの扉に背をもたせかけ、そのまま、すとんと川に落ちたのだった。ふいに扉のむこうに消えてしまったカツノリくんを捜して、私は川を覗き込んだ。カツノリくんは、あおむけになって土佐堀川の水面に浮いていた。人形のように、身動きひとつせず、ぷかぷかと浮いているのだった。そして、そのまま私の顔を見ていた。私は大声で母を呼び、ついで河畔を見やった。あいにく、ポンポン船は通っていなかったが、赤フンドシひとつで小舟をあやつっている見知らぬ男の姿があった。

「おっちゃん、助けてェ。あの子が川に落ちたァ」

 私は悲痛な声をあげて、真下の川面を指差した。その声で、男は怪訝な面持ちで指差す地点を窺い、やっとそこに浮かんでいる子供の姿を認めた。彼は慌てて舟の向きを変え、巧みに櫓を漕ぎながら、カツノリくんに近づいて行った。走り込んで来た母は、窓から顔を突き出し、蒼白になってカツノリくんを見ていた。そして、叫んだ。

「動いたらあかんでェ。そのまま、じっとしてるんやでェ」

 小舟がカツノリくんの傍に近づくまでの時間は、随分長く感じられた。だが不思議なことに、彼は沈まなかった。カツノリくんの浮かんでいる地点だけが、まるで水ではないように思われた。川の水が目に入るのか、ときおり顔を左右に振ったが、体だけは棒のようにして動かさなかった。

 やっとたどりついた赤フンドシの男は、片手でカツノリくんの腕をつかみ、小舟に引き上げた。カツノリくんはうっすら目をあけていたが、ほとんど意識はなく、私たちの呼びかける声にも反応を示さなかった。

            (中略)

 カツノリくんが、疾走している列車から落ちて死んだのは、それから十数年たった昭和四十年のことであった。当時、彼は医科大学の三回生で、山岳部に属していたから、私はカツノリくんの死を知って、てっきり山で遭難したものと思ったが、彼は山岳部の仲間と冬の穂高へ向かう中央本線の列車から転落したのであった。どこでどうやって転落したのか、同行していた仲間の誰もが気づかなかったということだった。なぜそんな事故が起こったのか、原因は結局あいまいなままになったが、そのカツノリくんの葬儀に、私は二、三人の友人とつれだって参列した。まだ現役の医者として、かくしゃくと患者の診察にあたっていたお祖父さんは、その日も決して取り乱すことなく無表情に坐っていた。私たちは焼香をすますと、そそくさとその場を辞した。

 それから何日かたった土曜日、私は風邪をひいて熱を出した。いつもは玉川町にある病院に行くのだが、そこは午後からは休診だった。カツノリくんのお祖父さんが、昔から土曜日の午後も診察していたことを思い出し、私は何となく気のひけるものを感じながら、病院の玄関をくぐった。

              (中略)

 カツノリくんと良く似た細長い目が笑っていた。

「生前は、いろいろお世話になったなァ」

「いえ、小学生のころは、ほんまに毎日一緒に遊んでましたけど......」

 それで、私はあの事件以来、二人の間柄が疎遠になってしまったことを話した。

「ああ、確かにそんなことがあったなァ」

 お祖父さんは瞳をどこか遠くに向けて、じっと思い起こしていた。

「そうや、あんたの家で遊んでて、川に落ちたんやったなァ」

「なんで、あのとき沈んでしまえへんかったんか、ときどき思い出して、ぞっとすることがあるんです。うまい具合に、近くに小舟に乗ってる人がいて」

「赤フンドシの」

「ええ、そうです」

「あの人は、いまは渡辺橋の近くで保険の代理店をやってるはずや。あのころは、中央市場で働いとったんや。......死にぞこないは長生きするいう話やけど、あいつはそうやなかったなァ」

 そう言って白い診察着を脱ぐと、ゆっくり膝の上でたたんだ。それから誰に言うともなくつぶやいた。

「父親の味も、母親の味も知らんと、可哀そうやった。あのとき死んでてもよかったなァ」

 私は黙っていた。どんな言葉も浮かんでこなかった。

(問)「私たちは焼香をすますと、そそくさとその場を辞した」とあるが、このときの「私」の心情はどのようなものか。その説

明として最も適当なものを一つ選べ。

①「私」とカツノリくんの家族との感情的な行き違いを強く意識させられ、力になれないむなしさを覚えている。

②肉親の死に取り乱すこともなく座っている冷静なお祖父さんの姿に、反発めいた気持ちを抱いている。

③葬儀に参列した同級生や友人の数があまりに少なく、お祖父さんが不愉快な思いでいるのではないかと心配している。

④カツノリくんを失ったお祖父さんの哀しみを推し量り、言葉を交わすことへのとまどいを感じている。

⑤真相がよく分からないカツノリくんの突然の死に対して、不審な思いを打ち消すことができないでいる。

 

 


 小説における出題の8割以上を占める心情把握問題ですが、基本、設問が解釈を求める心情が本文中に直接、叙述されることはありません。つまり、正解となる内容も「書かれていない」のです。ここでも、一般の指導者の多くが選択肢の間違いの理由の第一として上げる「書かれていないから×」が通用しないことがわかります。

 葬儀の席で、私たちが「焼香をすますと、そそくさとその場を辞した」際の心情は、後日、カツノリくんのお祖父さんの病院を訪ねた場面における「どんな言葉も浮かんで来なかった」と一致します。葬儀の場で「無表情に坐っていた」お祖父さん。しかし、その想いは、後日、病院における「私」とのやり取りの中で漏らされた「可哀そう」という言葉に集約されています。お祖父さんは悲しんでいたのです。そんなお祖父さんの気持ちを察すると、掛けるべき言葉が見つからない。これが「私たちは焼香をすますと、そそくさとその場を辞した」理由です。間違いの選択肢を消去するための客観的基準として整えると、心情はお祖父さんの哀しみとシンクロ(共感)した感情。そして、対象は「お祖父さん」です。

 選択肢の方では、まず、⑤で対象のすり替えを施しています。心情を寄せる対象が「お祖父さん」であるところが、⑤では「カツノリくん」にすり替わっています。また、心情部分でも「不審」と、判断不定のため、心情が発生しない状態に誤変換されています。「不審」は「怪訝」「不思議」「当惑」と並ぶ、判断不定の無心情の状態です。「私」の「お祖父さん」の想いに対する理解と共感が及んでいることを、正解④は「哀しみを推し量り」としています。④後半の「とまどい」は「不審」と同様の判断不定の状態ですが、この「とまどい」は「お祖父さん」に対してではばく、自分の行動に対するものですので許容されます。

 ①は「感情的な行き違い」が誤りです。孫を失った「お祖父さん」の悲しみを「私」は理解し、共感しています。同様の視点で、②の「反発」も誤りです。愛する孫を失った「お祖父さん」の悲しみに共感している「私」が「反発」心を抱くはずがありません。

 ③では一転して、「私」ではなく、「お祖父さん」の心情に関して、誤りを設定しています。言うまでもなく、「お祖父さん」の心の中は、「カツノリくん」を失った悲しみに満ち溢れています。「お祖父さん」が想いを寄せている対象は、もちろん「カツノリくん」。これを③は葬儀の参列者である「同級生や友人」にすり替えています。設問部分に二人分の心情が関与しているパターンです。そのそれぞれにおいて、対象が正しく捉えられているかに注意しましょう。心情把握問題における、心情を向ける対象(相手)のすり替えは、間違いの選択肢の一大スタンダードです。

☆心情を寄せる対象(相手)のすり替えは、心情把握問題における、間違いの選択肢の定番。

 


 この問題については、大手人材派遣会社運営の映像配信授業で高名な講師が、自著『現代文 プラチナルール』の中で解説しています。

『現代文 プラチナルール』 KADОKAWA

 

 私たちは(焼香をすますと)、そそくさとその場を辞した

  主部    接続部        述部

 

「私たちは焼香をすますと、そそくさとその場を辞した」理由は、「カツノリくん」の「お祖父さん」が、「葬儀の日も決して取り乱すことなく無表情に坐っていた」です。

①は「カツノリくんの家族との感情的な行き違い」という部分が、この理由ではないため誤りです。

②は「反発めいた気持ち」が「そそくさとその場を辞した」という結果につながらないため、誤りとなります。

③は「お祖父さんが不愉快な思いでいる」が誤りです。お祖父さんは「取り乱すことなく無表情」です。

⑤は理由が違うため誤りです。

 ご本人曰く、自分は「唯一無二」の優れた現代文講師だそうです。また、氏は「書いてあることをそのまま答える」ことを、そして、「文法というルールに従って」「文章を客観的に読む」ことを推奨しています。しかし、考えてもみましょう。現代文という科目が、ただかいてあることを忠実になぞるだけの機械的な科目であるなら、あまりにも簡単で、およそ大学受験科目の一端を担うには役不足ではないでしょうか。まして、使われる言葉は、私たちが日頃から慣れ親しんだ日本語です、文法はおろか、やれ「主語」だ「述語」だなどと意識しなくても、通り一遍の理解はできるのではないでしょうか。ここで為されている「主部」「接続部」「述部」などの解析には、どのような効果があるのでしょうか。

 何より、ご本人は「書いてあることをそのまま答える」との方針を大々的に打ち出しながら、この問題に限っては、「心情が書かれていない場合は、原因と結果から推測する」と、書いてあること以上の考察の必要性を打ち出しています。どちらが正しいスタンスなのでしょうか。

 元より、人間の営みの結果を大きく変える手っ取り早い「方法」など、ありません。愚直な努力の積み重ねの中で、徹底的に感性を磨くことに併せて、頭を鍛える。これだけが現代文という科目における向上の術です。

 無感情な人間は、言葉の背後に潜む人の想いを受け取ることが叶いません。③が上げた「お祖父さん」の「不愉快な思い」が誤りであることを判定基準が、なぜ「無表情」であることに求められるのでしょう。「無表情」であるところから、「お祖父さん」の心情を読み取ることは不可能です。

 加えて、著者は再現性の高いメソッドを提供していると豪語しますが、これら間違いの選択肢に対する講釈は、全て、その場限りのものであり、また、釈然としないものばかりではないでしょうか。間違いの選択肢の作成手順は、一部の例外(双括内容の欠落、及び、単一内容の双括化)を除き、本文、あるいは現実の逆の内容に変換するか、本文上で区別すべき異なる内容相互をすり替えるかの何れかしかありません。「書かれていないから×」になる選択肢は、この世に一つとしてありません。また、人間の一生を左右する大学入試で、内容の些少の訴位程度で間違いの選択肢が作成されることも、断じてないのです。

                                                         現代文・小論文講師  松岡拓美


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