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8.京都の節分に現れる鬼は何者か?京都盆地の風水についても簡単に解説。

京都の節分では、都にはびこる鬼どもが、鬼門にあたる吉田山の吉田神社に集まり、そこを追われて都の南東にあたる八坂神社に現れ、そこも追われて南西の壬生寺に現れ、最後に北西の北野天満宮に現れると鬼はそこで封じこまれてしまうという話があります。それら節分ゆかりの4社寺を参詣する習慣が「節分四方よも 参り」。そもそも節分の日は立春の前日にあたり、古くから旧年の終りの日とされて、この日行われる「追儺ついな 」「鬼やらい」の儀式は、向う一年の災厄を祓い、病を除く祈りをこめた重要な行事とされてきました。下記の写真は、鬼が最後に訪れる北野天満宮に奉納された鬼が退治される狂言です。

茂山千五郎家による「北野追儺ついな 狂言」の鬼
狂言では天満宮参詣の人々に悪事をはたらく鬼を福の神が退治するというストーリーになります。
鬼を退治する福の神
北野天満宮では、鬼は最後に北野天満宮の福部社ふくべしゃ に封じ込められることになりますが、狂言では、鬼を退治するためにヒーローの如くこの福の神が現れて鬼を退治します。福部社の祭神が十川能福そごうのうふく ですので、このヒーロがその神ということなのでしょう。十川能福とは、菅公に仕えた舎人(とねり=牛車をひく牛の世話役)で、その祭神名や社名より、金運と開運招福をつかさどる「福の神」として崇敬を集めるようになったそうです。
民(天満宮参詣の人々)は「鬼は外・福は内」と言いながら福豆を撒いて鬼を払う

「豆まき」はいつから始まったのか?」

「鬼やらい」の源流と言われている「追儺ついな 」は、慶雲3年(706年)に年中の病疫を追い払う行事として大晦日の夜に行われたことが『続日本紀』に記されています。一方、「鬼は外、福は内」と唱えながら豆を打って病疫を追い払う「追儺ついな 」の風習は南北朝時代の記録に残っており、今のように「追儺ついな 」の風習と「節分」が結びついたのは江戸時代になってからだといいます。(参考:国立国会図書館↓)

鬼は何者か? 京都の鬼門と祓い清めの聖地・北野天満宮

上記の「節分四方よも 参り」で、鬼が最初に集まるのが鬼門にあたる吉田神社です。鬼門とは、北東の方角のことで、古来より鬼が出入りする方角と考えられてきました。鬼が何者かというとそれは「邪気」であると考えられています。邪気とは、病気や物の怪もののけ 、疫病、祟り、怨霊、あるいは、怒り、憎しみ、恐怖、不安、絶望なども含まれるかもしれません。都にはびこるそれらの鬼が最後に封じ込まれるのが北野天満宮。その場所は、平安京の大内裏の北西、天門に位置します。元々この土地は祓い清めの聖地とされており、天満宮が創建される前に、日本国内六十余国の神々・天神地祇てんじんちぎ が祀られた土地で、その後、雷電・火難・豊作の守護神として火雷神が祀られ、災難・疫病・天災などの祓い清めの祭祀が執り行われてきました。そんな場所だからこそ、鬼を封じ込めることができ、菅原道真公もこの地に祀られることになったのです。

摂社 火之御子社ひのみこしゃ ・御祭神 火雷神からいしん
摂社 地主神社・祭神 天神地祇
「続日本後紀」に「承和3年(836年)2月1日、遣唐使のために天神地祇を北野に祭る」と記録されており、天満宮創建以前よりこの地に鎮座していた神社になります。

京都盆地の風水について

京都の歴史を調べていると風水思想の話がよく出てきます。「節分四方参り」でも「鬼門」がキーワードになっていますが、平安京の歴史書などでは「四神相応しじんそうおう 」という風水思想もよく出てきます。知ってるようでわかりにくい京都盆地と風水について簡単に整理してみました。

京都盆地の地形図と明治中期の地図と平安京の範囲(地形図はカシミール3Dで作成)

平安京が風水によって場所が決められたかについては諸説あるようですが、一般的には、風水思想の四神相応という考えを基礎にして、東に「青龍せいりゅう 」の鴨川、西に「白虎びゃっこ 」の山陰道、北に「玄武げんぶ 」の船岡山、南に「朱雀すざく 」の巨椋池があることから平安京の場所が決められたといわれています。その根拠となるのが、僧侶の賢璟けんけい という人物が土地の調査に同行したことのようで、賢璟は、桓武天皇の政治顧問であり渡来系氏族の出身であったことから、風水思想に詳しかったのではないかということのようです。

京都盆地の地形図に風水の方位を重ねたイメージ図

改めて地形図に風水の方位を重ねると、船岡山が、平安京の中央を南北に貫く朱雀大路の北方延長線上にあり、比叡山と吉田山は鬼門に、愛宕山が天門にあることが目につきます。天門とは、怨霊や魑魅魍魎ちみもうりょう などの災いが出入りする方角で、この天門を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされています。ですので、鬼門の比叡山と共に愛宕山は王城鎮護の霊山となっていきました。京の南西には男山があり、そこに鎮座する石清水八幡宮は、裏鬼門を守護するためといわれています。ちなみに裏鬼門というのは中国にはなく陰陽師が作った名前のようです。この図を見て思ったのですが、平安京の前にあった長岡京は、裏鬼門に位置し、長岡京からすると平安京は鬼門。はたして、平安京に遷都することで、桓武天皇が恐れたといわれる弟・早良さわら 親王の怨霊から逃れて平安に過ごせたのか。平安京自体が鬼門にあることを考えると、桓武天皇の恐怖心は最高潮に達していたのではないだろうか。そんなことも妄想できるイメージ図かもしれません。

北野天満宮の節分に舞踊を奉納する舞妓さん

舞妓さんがいるのは祇園だけではなく北野天満宮東門につづく参道にある上七軒も有名ですね。かわいい舞妓さんの舞踊がとても美しかたので本文とは関係ないですがチラッと。

北野上七軒の舞妓・ふみ苑さん
北野上七軒の舞妓・市ゆうさん

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