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【平和活動】35年前の、やがて哀しきヒロシマ体験記

今夜はヒロシマの実体験の話を。

今から35年前のことです。
その頃、私はハタチで、
大学の新聞サークルに所属し、
夏休みに取材の旅に出かけました。
目標は、広島でした。

大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』に
憧れての旅でした。
まずは被爆者の方が多い
老人ホームに向かいました。

私の頭では、さぞや被爆に苦しむ
広島の人たちから辛い話を
たくさん聞けるに違いないと
勝手に勢いこんでいました。

ところが、
扉を開けたら、
明るくゆったりした気配。
いわゆる、被爆の悲劇や痛みが
溢れていると思っていたアテは
すっかり外れました。

そりゃそうです。
老人ホームです。
その日常です。
みんな、毎日を生きている訳です。
その施設全体が深刻な空気に
溢れていると思っていた私は
単なる世間知らずであり、
文学青年に過ぎませんでした。

大江健三郎が
広島を訪れた頃とは状況も違います。
私の勇み足でした。

学生新聞のトップを飾ってやろう!
そうした野心がいけなかったか。

でも、呆然としていた私に、
今度は大きなニュースが
飛び込んできました。

広島市のすぐそばにある島々には
原爆で亡くなった方々の遺体が
たくさん埋められている。 
本土?だけでは遺体を
埋め切れなかったのです。

そうした、
似島とか瀬戸内海の島からは
今も当時の遺体が発見されている。
今は大量に、というほどでは
なくなったでしょうけれど、
私がハタチの頃、
つまり35年前は、
大量に遺体の白骨が発見されてました。

このニュースを旅館のテレビで
見ていた私はあわてて、
その島に出かけました。

きっと、大勢の人が
集まっているに違いない。
マスコミも詰めかけているだろう。
これは、新聞のトップを飾れるぞ。
当時の私は、広島では
毎年、こうした遺体の白骨が
発見されていることを知らなかった。

さて。島に着きました。
広島市から舟で15分程度だったかな。
白骨が発見された、旧校舎の運動場は
ちょうど港の反対側でした。
ぐるっと丘を周りながら
暑い風に吹かれながら、
旧校舎に着いたことをよく覚えてる。

しかし、そこには
決して大量の人々が
押し寄せている訳でもなく、
また、マスコミは皆無だった。

へっ???

校舎の運動場には、
白いワイシャツを着た
中高年層の人々が30人くらい、
ただ、ひたすら土を掘っていたんです。
まるで遺跡を掘るかのように
慎重に丁寧に、
そうして寡黙に。

ワイシャツの背中は、汗で
ぐっしょりになっていました。

私は比較的近いところにいた
男性に尋ねました。

「原爆の時に亡くなった人々の
遺体が見つかったって聞いたんですが」
すると、おじさんは
落ちついた表情で、
「まだね、そうと決まった訳でも
ないから、慎重に作業してます」

???
そうと決まった訳でもない?

広島では、毎年、こうした
白骨が発見されるものの、
それが必ずしも、
原爆の時のものかは分からない。
時には、原爆時の家畜たちの遺体の
場合もあるらしい。

それよりも、
今ここでコツコツと
発掘作業をしている人たちは
どんな人々たちですか?
平和活動とか?
反核運動のためとか?

そう尋ねると、
「いやあ、みんなは、
原爆の時に死に別れた家族や友人が
出てくるかもしれない、と
ただただ、遺族の気持ちとして
参加しているんですよ」
という返事が返ってきました。

私は、また勇み足だった。
反戦活動とか、
反核運動で、東京で騒いでる人々は
こんなところには来ない。
あいつらも、そうして私も、
ただ、ただ、
自分の承認欲求か何かで
動いているけれど、
本当の平和活動とは、
死に別れた人々の遺体を見つけ、
成仏させてあげたい!
そんなシンプルな思いから
広島の人々は土を掘り、
白骨を取り出しているんですね。
それこそが、最高の平和活動。
声高にただ叫ぶだけが
反戦活動じゃあないんだ、と
私は打ちのめされました。

ただ、ただ、
新聞に載せたい野心だけで
ここ、小さな島に来た私は
自分が恥ずかしくて恥ずかしくて。

ぐっしょりしたワイシャツの
おじさんおばさんたちに
まざる勇気も出ないまま、
私はまた、丘を越えて、
港に戻り、本土に戻りました。
不思議なことに、その後の記憶は
もう全然ありません。

ただひとつ、私はその体験以来、
もう頭でっかちな新聞記者の
マネごとは止めました。

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