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【マイノリティ】声を上げられない社会的弱者に、私たちはどうしたらいい?

「社会的弱者」「マイノリティ」
という言葉をしばしば
見たり聞くのですが、
私はその度にちょっと微妙な
気持ちになります。 
 
新聞やテレビ、ネットでは、
同性愛者や障がい者、精神障がい、
シングルマザーの人などを
言う場合が多いでしょう。

果たしてご本人たちは
「社会的弱者」「マイノリティ』と
呼ばれることを 
よしとしてるんでしょうか? 
複雑な気持ちではないでしょうか?

彼らを「弱者」とみなす
マスコミの人や
政治経済を仕切ってる人が、
自分たちは「強者」だという
無自覚な優越感を感じてしまう。

編集者として一度焦ったのは
阿佐田哲也さん、 
純文学の場合は色川武大さんの
こんなエッセーを読んだ時です。

阿佐田哲也さんは、
ナルコレプシーで元ギャンブラーで、
若い時分はギャンブルなど、
不安定なしのぎ方で生きてきた
アウトロー。
そんな阿佐田さんが書いた本のオビに
「社会の底辺への優しい眼差し」
といったキャッチコピーがつく。

その本には、阿佐田さんが
人生で出会ってきた、
ギャンブラーや浅草芸人、
浅草ストリッパーや、
呑み屋街の流し、などが
描かれているのです。

そうした人々を形容するのに、
「社会の底辺」と書いたのは、
おそらく安定したサラリーを
もらっている、
おそらくはお勉強ができた
編集者でしょう。
それにしても、デリカシーがない。
阿佐田さんはそんなオビコピーを見て
自分が今まで共に生きてきた人は
「社会の底辺」だったのか?と
やりきれない気持ちになったそう。

たしかに、マスコミにいる大半は
自分自身は安全圏にいますね。
安全圏にいながら、
ウケをよくするために、
社会的弱者とか、
社会の底辺というフレーズを使う。

温かい眼差しで書かれた本の
カバーやオビに
温かくない傲慢なフレーズが踊るのは、
どうも座りが悪いですよね。

オビは出版社や編集者が
書いてる場合が多いとは言え、
中身と真逆の場合は
やはり、マズいですね。
 
でも、これ、
編集者あるあるなんです。
デリカシーより、インパクト重視。
よくないですね。

あ、そういえば、
最近は、自称成功した人や
成功への道まっしぐらの人の言葉が
ネットやビジネス書で
溢れてはいますが、
あれ?
「弱者」の話はどうしたんだろう?
女性問題と障がい者問題、
それからLgbt配慮を除くと、
苦境にいる人たちの話は
文学畑でさえ、
少なくなったような気がします…。

ひと昔前の日本映画や
ハリウッド映画では、
常に「敗者」「弱者」側からの
眼差しが行き届いてました。

これも時代でしょうか?
普遍的な気もするんですが…。
「敗者」や「弱者」への眼差しも、
エンタメにしていく方がいいかも?

直接に関わったりボランティアで
関わったりしなくても、
色々な立場のマイノリティを
優しく見つめる眼差しが
養っていけたら、いいのかな?

少ないとも「社会の底辺」なんて
無邪気に本のオビに書いてしまう
編集者やライターはどうか
いなくなりますように。

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