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【文学】小説はなぜ19世紀に開花したんだろう?

私たちが今馴染んでる小説は、
もともとは、
19世紀に欧米を中心に栄えた
文化の成果だ、というのは、
もう耳にタコができるくらい
よく聞く話ですよね。

ところで、
なぜ欧米を中心にか、
また、19世紀なのかというのは、
あまり疑問にはしてきませんでした。

なぜなんでしょう?

そんな時、偶然読んでいた
司馬遼太郎のエッセイに
こう書いてありました。
「まことに、近代文学は、十九世紀のヨーロッパが世界に贈った大いなる果実でありました。
それがなしえられたのは、おそらく作家それぞれが「絶対」という神に代わるべき虚構を、ためらいもなく主題の中央に据えることができたからでありましょう。」
「開高健への弔辞」
『十六の話』(中公文庫)収録

うーむ。なるほど〜、
宗教改革や革命によって、
神の威力は衰退し、
個人が見出された時代。
神という絶対的な存在が
なくなってしまったことが、
文学が開花したきっかけだったのか。
なるほど〜。

欧米の人々は、
宗教に代わる何かを模索して、
その最たるものが、
文学だったという訳か。

神の代理品を求めた文学が
徹底した描写を大切にしたのは
なんだかわかる気がするなあ。
ディケンズやスタンダールや
トルストイたちは、
ややもすると退屈なほど
描写を丁寧に重ねながら、
情景描写のみならず、
心理描写も執拗に描く19世紀文学。
それは神を失った人間が
自ら創造主になって
人間を生み出してたんだとしたら、
文学が神なき時代に栄えたのは
理屈としてはよく分かりますね。

ただ、絶対的な神をはなから
持っていなかった日本人には
さて、何を求めて、小説を
書き続けたり、
読み続けてきたんでしょう?

司馬遼太郎のエッセイには
そこは詳しくは書かれていない。

それはわれわれ一人一人が考えて
答えを探すしかないのかな〜。

日本では日本なりに
日本人にしか出来ない模索をして
小説を書いたり読んだり 
しているとしたら、
それは楽しい歴史だったんだろうな。

うーむ。
余りに壮大な話になり過ぎて、
今の私では手にあまる…。

でも、小説を書くことは、
ひとつの世界を作ることであり、
神になる行為に近いですよね。

きっと楽しく且つ厳しい
体験なんでしょうね。
小説を書きたいとは、
なかなかな蛮勇が必要なのは
間違いないみたい。

 

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