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【文学と漫画】文学の作り方と、漫画の作り方は全然ちがう?!

小説には小説の、
映画には映画の「文法」がある、 
と昨日は書きました。

その話では、
漫画にも、やはり
漫画の「文法」があります。

漫画編集者時代は、
よく、小説を原作にして
面白い漫画をつくり出したい、
と考えたものですが、
そこに毎回かべとなったのが
漫画と小説の「文法」の違いを
どう克服するか、でした。

たとえば、
漫画では、
主要人物はたいてい、
読者が共感しやすい、
魅力的な人物作りに
時間を費やします。

漫画では、共感がマストと
いっても過言ではありません。

手塚治虫のブラック・ジャック、
浦沢直樹のマスターキート、
安野モヨコのハッピーマニア、
さくらももこのちびまるこ、
みんな、中身は違いますが、
共感、シンパシーが
ヒットの秘訣になっていることは
間違いありません。

漫画は、シンパシー、共感です。

一方で、
小説はどうか?

あきらかに漫画の影響を
受けていない、
いわゆる純文学の作家の作品を
思い起こすと、
共感はまず難しいかな?
という主人公が多出します。

夏目漱石『こころ』を
思い返してみてください。
漱石の語り口は抜群ですが、
あの中に登場する「先生」は
裕福な人生ながら
奥さんとは三角関係のモツレから
友人を追い詰めた過去をもち、
ずっと罪悪感を抱き、、、、
かなり偏屈で数奇な人生、
そこには読者たるわれわれは
共感はしにくいですね。
シンパシーは発生しない。
その代わり、
エンパシーは生まれる。
自分との違いをありありと
痛感させられる人物を、
漱石は造形しています。

これは、漱石『それから』でも
同じでしょうね?

主人公は、高等遊民で
まあ、のんびり仕事探しをしながら
その過程で、友の夫人と懇ろに
なりそうになる人物、、、、
共感、シンパシーを感じる
タイプではないですね。

では大江健三郎『個人的な体験』を
思い起こすと、
あの主人公は、まあ
ひどい男かもしれません。

奥さんがもうすぐ出産に
なるというのに、
自身の自意識過剰な問題に
囚われ、
しかも、子供が生まれると、
脳に重大な障害を抱え、
生まれたばかりで生死を彷徨う
赤ちゃんに、主人公は恐れを抱き、
逃げようとする、、、、

ざっくり言うと、
身も蓋もないですが、
これが代表作になるほど
読まれるのですから、
純文学は実に特殊な「世界」
なんですねえ。

もちろん、文学にも変化は
起きていて、
おもに1980年代以降でしょうか 
村上春樹や吉本ばななら、 
共感しやすい、魅力的な人物を
主人公として造形するようになる。
とりわけ、
吉本ばななはあきらかに
漫画の影響をしっかり受けている。
現在の現役小説家は、
この二人が開拓した更地で
活動してるから、
漫画的な手法で、
共感しやすい人物を
造形しやすく書くように
なりましたが、
日本の、明治時代や
昭和時代の小説は、
人物がなかなか共感しにくかった!

なのに、漱石や大江健三郎が
人気となっていたのは
なぜなんでしょうね?

小説の文法、正しくは
「小説の骨法」や「漫画の骨法」 
などについて考えたくて
書き出したのですが、 
また、ひとつ
大きな謎に出会いました。

なぜ、共感もできない人物が
主人公の純文学が、
これまで人気になるのか?
読者に支持されてきたのか?

シンパシーと似ている
エンパシーという心理学の概念を
調べるとわかるかもしれない。
 
でも、エンパシーを
よく知らない私が、
ちょっとネットで調べて
記事を書いたところで
底がしれてますからねえ。

今は、ただただ、
漱石『こころ』に
なぜ日本人は、こんなにも
支持されてきたのでしょうか?

漫画の文法であるシンパシーでは
説明がつきません。

ちなみに、
『こころ』を漫画化した
作品はこれまでにもありますが、
それは、「難解な文学だって、
漫画にしたら、みんなにわかりやすく
読んでもらえる」という
漫画ジャンルばかりにいた
傲慢な編集者の、
漫画への肥大した信頼しか
感じられませんね。

それはまた、別の機会に。

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