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【村上春樹】純文学か?エンタメ文学か?
村上春樹は
純文学か?大衆文学か?
『村上さんのところ』(新潮文庫)では、
p95で、春樹自身が
こんな風に自分を規定しています。
「これは純文学だ」と意識して
書いているかというと、とくに
そんなことはありません。
でも心の底では
「これは娯楽小説ではない」という
意識はいくらかあります。
村上春樹は
自身はやはり純文学作家だという
矜持が「いくらか」あるわけですね。
それで、問題は
彼にとって、何が純文学で
何が娯楽文学か?ですが、
純文学たりえる条件を
春樹はこう語っています。
読者が理解するため、
純文学はある程度の
咀嚼力が必要になる、
それが純文学であり、
一方、娯楽文学は
読者に咀嚼力を求めない。
なるほど、純文学は難解だから
読者は自分の理解力や想像力で
作品を読み解かねばならない。
それが純文学だ、と、、、。
う〜ん、わかってきたかも、、、
純文学と娯楽文学の違いは。
でも、娯楽文学の主役でもある
推理文学は、読者が自分の
理解力や想像力で読み解く必要が
ありますよね。
ハルキ流の定義では、
そこがもうひとつ曖昧です。
私はむしろ、
純文学と娯楽文学という線引きが
そもそも現実的ではない気がします。
いっそ、
こんな風に分けたらどうかしら?
「面白くてワクワクする文学」と
「そうでない文学」。
あるいは、「読んで行くうちに、
どんどん無意識に想像力や理解力が
湧いてくる文学」と
「そんなに想像力や理解力が
湧いてこない文学」。
村上春樹作品はもちろん、
「読んでるうちにどんどん無意識に
理解力や想像力が湧く文学」ですね。
ただ、文学の定義としては
明らかに長すぎますね?(笑)。
でも、読書をしていて、
コンディションがうまく行っている時、
無意識に想像力や理解力が
自分の頭のなかで動き回り、
アドレナリンが出まくっていく。
実に楽しいですよね。
ああ、あれが読書の最高の瞬間です。
作家が10書いていたのに、
読者は100受け取れる体験です。
その反対は、
そうした力が湧かないまま
進んでく読書で、
こんな時は詰まらないですね。
作家が10書いたら、
こちら読者も単に10を受け取る、
というタイプ。
書き手自身のイマジネーションが
どれだけ、文字の背景や行間に
こめられているか?にかかってますね。
純文学か娯楽文学か?の話から
ちょっと話が逸れましたか(笑)。