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【読書】古典と現代作を分けるのは、何だろう?

古典と現代作を分けるのは何だろう?
作品に宿る湿気の有無かな?

古典と、現代作。

この2つは、なぜ?どこで?
どう?分かれるんだろう?
何が基準なんだろう?

平成時代の作品でも、
例えば、宮部みゆき初期作品
『理由』『火車』『龍は眠る』あたりは、
まだスマホもSNSも出ず、
社会背景には昭和の経済成長の歪みが
ちりばめられている。
なんだか、もはや古典だ。
でも、それだけではない。
古典に感じるのは、
作品から湿気を感じるからではないか?
宮部みゆきさんも、
2000年以降は、どの作家の作品にも
明らかに肩から荷が下りたように
ジメジメした湿気がなくなる。

空調が効いた人工的な世界になる。
テロや近未来や孤独死や
クローン等が扱われても、
どこか爽やかだ。

もちろん、
昭和が良い悪いではない。
あくまでも変化、です。

ただ、昭和文学を湿気ゆえに
敬遠してしまう若い人が
あまりに多い…。

昭和や明治の文学は
日本家屋らしい、ジメジメした
湿気がたっぷり含まれてる。
(大正デモクラシー時代の白樺派は、
西洋文学の移入がメインだから
あまり湿気はない…)

たぶんこの湿気たっぷりな文学感覚が、
昭和文学が敬遠される原因でしょうか?

たしかに、昭和文学や明治文学の
人物は、とにかくウジウジしてる(笑)。

でも、もったいないなあ。
ジメジメと風通しが悪いだけで、
大江健三郎も、色川武大も、
武田泰純も、武田百合子も、
小島信夫も、吉行淳之介も、
太宰治も、島尾敏雄も、
石牟礼道子も、永井荷風も、
中上健次も、小林秀雄も、
敬遠してては、もったいない、
もったいない…。

そういえば、遠藤周作と
大岡昇平は、なぜか
湿気が感じない。
鋭い明晰さが湿気を追い払うのか。

さて、話は戻りまして、
日本文学の湿気の話に。
湿気への嫌悪感は、生理的なもので、
簡単には拭えないですね。

湿気は、作家や社会が宿した、
簡単には切り捨て切れない
感情、感覚の集積でしょう。

平成、とくに2000年以降は、
社会も文学も人間関係も、
昭和に比べ、どんどん湿気が
なくなっていく時代でした。

サラリと味わえる最新作も素晴らしい。

でも「現在」は「過去」と繋がってる。
過去なしに、現在は、出来上がらない。
だから、古典なしに現在の最新作も
出来上がらない…。

5冊、最新作を読んだら、
1冊、昭和や明治の文学を読む、
なんて、いかがでしょうか。

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