【文豪】坂口安吾がよくわからない?
「◯◯がわからない」シリーズ、
そろそろ、川端康成や
大江健三郎を取り上げる?
という段階に入ってきました。
その前にも文学的な巨人は
いるよと言われるかもしれない。
確かに、小説家はいっぱいいますね。
志賀直哉、
島崎藤村、
樋口一葉、
石川啄木、
種田山頭火、
江戸川乱歩、
中島敦、
堀辰雄、
森敦、
福永武彦、
小林秀雄、
太宰治、
坂口安吾、
小島信夫、
大岡昇平、
安部公房、
三島由紀夫、
星新一、
筒井康隆、
井上靖、
井上ひさし、
林芙美子、
岡本かの子、
岡本太郎、
村上龍、
向田邦子、
幸田文、
よしもとばなな、
平野啓一郎、
川上未映子、
小川洋子、
川上弘美、
江國香織、
それから、村上春樹。
うわ、かなりまだまだ
たくさんいますね。
取り上げられそうな作家は。
でも「◯◯はわからない」式の
記事は、まず取り上げる人を
とても好きというか、
愛情がないと、うまく行かない
一面があります。
愛情がないと、ただの悪口に
なってしまうからです。
上にあげた作家では、
島崎藤村や志賀直哉は
愛情はあまりない、
ないというか、
愛情が減ってしまった。
それは現代の生活において、
彼らの小説や思想は
問いかけて来るような、
彼らから学べるような何かを
どうも余り感じないからです。
それなら、いっそ、
海外の作家を取り上げるほうが
いい気がしています。
さて、前置きは長くなりました。
今日、まな板に乗せるのは、
戦後に活躍した
坂口安吾にしましょうか。
坂口安吾。
最近はどうも新刊も減り気味。
新潮文庫から
「白痴」
「堕落論」
「不良とキリスト」
「不連続殺人事件」
岩波文庫なら、
「桜の森の満開の下・白痴」
「堕落論・日本文化史観」
「風と光と二十歳の私と・いずこへ」
ただし「風と光と…」は現在、絶版状態。
講談社文芸文庫では、
「日本文化史観」
「桜の森の満開の下」
「風と光と二十歳の私と」
今、新刊を扱う本屋さんでは
こうした本が並んでいる(はずです)。
人気作家といっていいはずです。
ところが、坂口安吾がいま読書界で、
根強く人気だという話は余り聞かない。
というか、
私が学生時代だった30年前は
もう坂口安吾が
太宰治と同格に
人気があったのですが、
それがなんだか嘘のよう。
坂口安吾は、
戦後無頼派でならした
太宰治、
坂口安吾、
織田作之助、
無頼派三銃士の一人でした。
30年前は
まだ太宰治を一番好きだというと
ちょっとベタというか
恥ずかしかった空気があり、
あえて、背伸びして
自分の一番好きな作家は
坂口安吾と言ってる人が
たくさんいました。
安吾で、今も読みつがれている
エッセイというか評論は
「堕落論」と「日本文化史観」
それから「文学のふるさと」
「特攻隊に捧ぐ」あたりでしょうか。
非常に熱の入った
人間論、文学論です。
でも、安吾は評論家とは言わない。
小説家と分類されていますね。
今読んでも面白い小説と言えば、
「白痴」「桜の森の満開の下」
「私は海をだきしめていたい」
「戦争とひとりの女」
「青鬼の褌を洗う女」
辺りでしょうか。
このうち、中世が舞台の
「桜の森の満開の下」は
恐ろしさと悲しさと美しさが
同居した波乱にとんだ作品ですが、
他の現代的な小説には、
なぜか大きな起承転結は余りない。
あると言えばありますが、
こんにち的な意味での、
激しい起承転結や
衝撃のラストといった筋書きは
どうも見当たりません。
たしかに、
今は筋書きの起承転結が
必要とされ過ぎていますね。
だからか、ディテールは
かつて程は必要とは
されなくなった感があります。
でも、かつては、
心理モノローグだけでなく、
その人物キャラについても、
出来事についても、
実に細かくディテールが
語られていました。
安吾もディテールを細かく書いて
読者の心を満たすタイプの作家でした。
それは、盟友だった太宰と
よく似ています。
逆に言えば、
安吾も太宰もディテールには
凝りましたが、
あらすじの波乱さはなく、
起承転結も弱く、
衝撃のラストもなかった。
もしかして、
安吾や太宰は、
起承転結が苦手だったのかな…?
それは安吾「白痴」を読めば感じます。
太宰にも、よくよく考えたら、
筋書きが波乱なドラスティックな
作品って少ない気がしてくる。
なのに、安吾も太宰も
無頼派の人気作家として、
読書界で扱われています。
(織田作之助はほとんどその作品は
出回らなくなりましたね…)
安吾が凄いとされるのは、
小説のディテールの凝り樣なのかあ?
一人の人物を登場させるには、
安吾はその人の経歴は当然、
性欲の度合いやら、
占い好きかどうかやら、
人生の信条やら
3日前の独り言やら
もういきなりそんなディテールを
ぶち込んでくるのかあ?と
圧倒されるでしょう。
ディテールが大事だと
おそらくはそれが
安吾の作家としての
信条だったんですねえ。
ディテールなくして
物語は始まらないということか。
今なら京極夏彦が
そのディテール主義を
受け継いでいるのかもしれない。
それにしても、
小説、
散文芸術としては、
安吾はあまりドラマ作りが
上手くはないというか、下手なのか?
だからでしょう、
安吾の小説は、読みやすい。
エッセイみたいに読みやすい。
別世界へ惹き込まれた、
という感覚がないからです。
自分のいる世界と地続きな
感覚に思えてくるから。
うん、これは、安吾がわざと
狙っていたのだな?
だとしたら、安吾はやっぱりすげえ。
どうなんでしょう?(笑)
結局は、もう一度、
坂口安吾をしっかり読み込んで、
その本質をあやまたずに
読解する他ないようです。
私は今まで、安吾マジックに
騙されていたのでしょうか?
安吾はやはり、わからない。