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アラサーが15年前の課題図書を読んで本気で読書感想文書いてみた

ベルンハルト・シュリンク「朗読者」を読んで


 夏っすね。

 夏が嫌いになって久しい陰の生き物ですが、「ちょっとした休暇がある」という一点に限って言うならば夏の半ばの1週間だけは許してもいいかなという気持ちになっています。はよ仕事辞めたらええやん。

 さて今日は何度かTwitterで言っていた(一人で盛り上がっていた)企画、その名も「中学生の時の課題図書にアラサー会社員が本気で読書感想文書いてみた」をやっていきたいと思います。

 読書感想文といえば毎年この時期になると親を殺されたんか? ってくらい怨嗟と忌避感と自分語りの題材になるものですが、まあこのブログの存在が物語るように感想文を書くこと自体は自分自身にとってなんら苦ではなかったわけで、聞かれてないことまで語りたがるTwitterの民たちがなぜこんなにも苦々しい語り口で俎上にあげるのか不思議な程でした。多分それは学生時代の抑圧とか後悔とか黒歴史への悔悛とか様々なものが綯い混ぜになったが故の行動心理だと勝手に思ってます。「課題に追われる」ことの心理的瑕疵もあるのかもしれない……

 学生時代から星の数ほどの他人の読書感想文を手伝ってきた人間だったので(その見返りとして描きたくない絵を友人にアウトソーシングしていたりしました)、全員に杓子定規に作文を強制する横暴さ、感想を持つことを強いる教育の傲慢さに対して思うところがないでもないです。訊くところによると最近はいくつかある課題の選択肢の中から選べるようになっている学校も多いとかで、教員とはいえかつての子どもだった人たちの人知れぬ努力を感じたりもしています。


 前置きが長くなりましたが、ということで読書感想文を書いていきましょう。

 今回題材にするのはベルンハルト・シュリンク『朗読者』、ドイツでは1995年、日本では2003年に翻訳版が出版されたベストセラーです。2008年には映画が公開されており、日本では「愛を読むひと」のタイトルで知られます。各種配信サイトにあるのでタイトルは見たことがあるという人も多いのでは。

 この本のことはいろいろな機会で自分自身話題にし続けているので今更感もあったのですが、どんなに今更と言われても何度でも話題にしたい、それくらい自分の真ん中に突き刺さっていつまでも軸となるようなものがあるというのは幸せなことだと思います。多感な時期に触れたこともあり、おそらくはこの経験を簡単に塗り替えることは出来ないでしょう。

 この本は中学2年生の時、夏の読書感想文課題として提示されました。当時の国語担当の教員が文庫本を一括購入し、学年全員に配布したのを覚えています。違う年度には島崎藤村『破戒』、夏目漱石『こゝろ』、山本有三『路傍の石』などがあったので、端的にいうとこのチョイスはもう教員の趣味なんじゃないかと思います。なお行ってた学校は私立で、これらの教材名目による購入は全て「学級費」と称される集金制のものが財源であり、税金はおそらく使われていないということをここに記しておきます(なんかそういうこと言っとかないと思想性の強さのゆえに変な炎上しても困るので……)


あらすじ
 15歳の少年ミヒャエルは病気を介抱してくれた年上の女性ハンナと恋仲になる。彼女はいつも少年に朗読をせがんだ。ある日、突然彼の前から姿を消したハンナ。大学生になったミヒャエルはハンナと戦争犯罪の法廷で再会する……


 当時15歳だった自分は、この15歳の少年が年上の女性にどハマりするという話のエロさに目がいって序盤は全く内容が頭に入ってこなかったわけですが、ハンナが姿を消したあたりからおや? と思い、裁判に至っては鬱でしかなく、最後も絵に描いたようなバッドエンドで、正直なところ全く好きになれないなと思ったものです。しかしながら宿題は宿題、と向き合って何かを捻り出そうとするうちに、戦争犯罪と一言で説明されるものの方に目がいき、そもそも戦争犯罪とは? 何をやったのか? 何が罪なのか? の方に関心が向いたため、その辺りのことを調べて書いた気がします。詳細は覚えてないけど多分それは読書感想文ではないのです。そもそも感想じゃないし。きっと当時の真面目な中学生にとって、感想の範疇とはいえ作者が提示している内容、作者が意図している(と思しき)登場人物の行動真理を否定することなどできなかったのだろうと思います。わからないものは否定できない。端的にいうと理解の範疇を超えていたのでしょう。それはそう。21世紀の日本の女子中学生というのは、見ようによっては世の中で最もものを知らない生き物の属性の一つかもしれません。ただこの時の理解できなかったことへのある種の悔しさ、蟠りのようなものは、課題図書として提示されたおよそ2年後の高校1年生まで引きずることになります。この夏、忘れもしない13年前の日に、改めて読み通した時の印象の変遷は今でも鮮明に覚えています。そしてその夏以来、読んだことのない方には必ず読むように勧めるドイツ文学の傑作となりました。たった2年で物の見え方はここまで変わるのかと衝撃ですらありました。そして今、さらに時が経ち、ミヒャエルよりもずっとハンナに近い立場となって再度、読み終えたところでこの文を書いています。この13年間の愛読の過程が擦り切れた文庫本の天側に見て取れますね。ロンドンへ行く時も、ベルリンへ行く時も、パリへ行く時も携えていった一括購入の文庫本。スーツケースの底で作った傷みは、新潮文庫の独特の裁断と相まってなんともいえない風情を醸し出しています。

これは文庫版ですが単行本も装丁は同じです イイ


 無知な中学生にとって、性愛というのは己の理解の範疇を超えた恋愛の一形態であり、それは愛というものの最も完成形に近いもののように認識していました。故に性愛を伴うミヒャエルとハンナの関係が脆く壊れることへの疑問が大きかったわけで、その物語上の「裏切り」への嫌悪が作品全体への違和感となって受け入れられなかったのでしょう。高校生の自分にとって、性愛はもはや最上位の愛の結露ではなく、数多ある共通認識のうちの体現される一つでしかありませんでした。ちょうど高校生の頃に「窮鼠はチーズの夢を見る」という漫画作品に頭をぶん殴られていたこともあり、そもそも性愛の絶対視に強く反発していたというのもあって、それ以前よりもずっと冷静にハンナが姿を消して以降の物語の推移を見守ることができました。それをもってしてもやはり最後のシーンには理解が及ばなかったのですが、理解が及ばないながら丁寧な感情の応酬に相当な衝撃を受け、大学に進んだらドイツ文学をもっと勉強したいと心に誓ったものでした(実際に専攻することはなかったものの、独文学の大学院ゼミに参加するなど継続して勉強することは実現しました)。

 ミヒャエルと関係した時のハンナは本文記述によると36歳。当時ミヒャエルの方が自分たちの視点に近かったはずなのに、すっかりハンナの方が視点として近くなっている。そして自分はミヒャエルの気持ちがついぞわからないまま、歳だけハンナに近づいてしまっている。人は生きていたら歳を取るので当たり前とはいえ、作中の人物は歳を取らないし、何度読み返しても結末が変わることはない。一冊の本の中で前から後ろに向かってどんどん彼らの時は流れますし、巻き戻すことも改めることもなく、結局最後に彼の手を永久に振り解いて訣別して、ハンナはハンナとしての自発的な死を選ぶ。

 死ぬほどの絶望も、死ぬほどの悲哀も、客観的には何もないところに唐突に一行で突きつけられる命の終焉は、ダメージが大きく同時に理不尽ですらありました。しかしその理不尽さは、理不尽に命を奪われた人々と実は何も変わらないのです。何も。ハンナが選び取った死は綺麗事でも救済でもなく、ただそうするしかなかったのだと、その「そうするしかなさ」は自分にしかわからないものだと、あっさりとした幕切れとそれを受け入れられないまま遺体と対面するミヒャエルの心理描写を通して読者は理解せざるを得ません。意外なほどに拍子抜けする喪失の描写を筆者は殆ど描いていないため、結局それらは読み手の想像に委ねられ、良くも悪くもその過程を想起しないではいられない。語られるのは最後にハンナが文字を読めるようになったこと、強制収容所について様々な知見を得るに至ったことであり、額面通り受け取るならば己の死に値するような絶望をそれらの知見から得たということになるわけですが、絶望と希望の二元論的な落とし所でなく、いずれもが同居した結果の社会復帰を拒むための死、憧れ誇り愛したものをそのままにするための死、思い出を思い出のまま残しておくための死といろいろな正解が飛び交う気がします。そしてそれを定義づけることは、作者はおろか全ての読者が望まないことでしょう。人の行動には理由がありますが、その理由を他人が納得するためのロジックが必ずしも存在するとは限らない。価値観の違いは決して埋め合わせることができません。

 ハンナの崇高でこだわりが強くて、高潔で求心力のある意志と矜恃に満ちた人格は、ミヒャエルの視点を通してからだと繰り返し強調されますし間違いではないのだろうと思います。一方でそうして己のことを見続ける若人に対して、または既に若人ではなくなったものの憧憬を隠そうとしない年下の人間に対して、自分はそんなに立派な人間ではないのだと言語化しなければならない苦悩を思うと、ミヒャエルが傍にいて生涯を支えるという申し出が、ハンナにとってどれほど嬉しく、同時に恥ずかしく、自責の念に駆られるものであったかを考えなくてはなりません。その葛藤はミヒャエルにとっておそらく死ぬほどのことではないように思えるでしょうし、そうであればこそ「いろいろあったけど二人は幸せに暮らしました」という結末が欺瞞に満ち溢れたものであるか、それを言語化する術を持たないながら、ハンナだけが理解していたのだろうと思います。ミヒャエルはきっとハンナのような恩のある、昔から知っている、かつて愛し合った人とその後の人生を過ごすことをなんら苦に思わないでしょうし、なんならそこに何がしかの責任感と同等の社会的義務のようなものまで感じていそうで、そういうところは得てして相手に伝わってしまうのですが、それを善なることと信じて疑わなかったのだろうと思います。幾つになってもミヒャエルはハンナに恋い焦がれているし、ハンナはハンナでミヒャエルのことを愛しているので、離れて生きることが叶わないなら己が死ぬしかないと思い至ったのではないでしょうか。そこに客観的な「戦争犯罪」という要素が絡み、過去を決して「なかったこと」にできないハンナが、文字で見た己の所業の罪深さを常人のそれより重く受け止めてしまったことももちろん想像されないでもありません。記録され他人の目を介した文字記述によって、己の悪行が描写されるとふと我に帰る犯罪者は今もなお多くいます。同じことがハンナに起こる可能性は捨てきれませんし、その衝撃は文字の読めるミヒャエルには想像され得ない大きな力を持っていることでしょう。

 戦争犯罪の矮小化を叫ぶ意味合いではなく、今や先の大戦から75年以上が経過して、当時を知る人の方がずっと少なくなってしまったので、我々は愚かにも過去の事例から似たものを探し出して啓発する以外に手筈を持ちません。それができればまだ良いのですが、独断が横行する世界でそれすらなし得ずに、今の時代にはあり得ないような殺戮と残虐な振る舞いによって何人もの人が世界中で命を落としています。報道されないだけで何も改善されていない、罪に罪の上塗りを重ねるような世界で、愚直に己の罪と向き合う姿はフィクションとはいえ非常に示唆に富んでいます。


 戦争犯罪を糾弾しながらもそこに人間の尊厳を見出す切り口としては、フェルディナンド・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』が数年前に映画化され、その流れで私も原作本を読みました。すでに社会人となって久しく、またドイツ社会への理解も中高生の頃と比べれば幾分か深まっていたため根底から覆されるような衝撃を受けるには至らなかったものの、実に意欲作で示唆に富んでいると感動したものです。きっとこの切り口は日本では絶対にあり得ないし、日本でこのようなフィクションが作られて話題になることはないだろう(似た背景があるにもかかわらず)。であればこそ言語を学び他国のフィクションに触れているわけですが、幼少期に確実に「過去」のこととして学ぶ題材だったはずの出来事が異様に現代の現実と重複する部分が多いことは、全く望まないだけに苦痛も大きいなと思う今日この頃です。

 読書感想文のセオリーに則るならば、戦争を題材にした作品の感想の最後には「戦争はしてはいけない」と明記するものですし何の躊躇いもなくそう思っていますが、現実にどこかで戦争が起こったまま、打つ手立てもなく安全圏にいるしかない一市民としては、せめて惨状から目を逸らさず、人道支援なり命の保全活動なりに関心を向けていきたいと思います。固定費として毎月支払っている医療支援の募金は滞らせたくないので、であれば嫌いで仕方ない仕事もしなければなりませんし、当然税金も払う必要があるわけで、とりあえず自分にできることをしよう、せめて仕事がんばろう、と思いました。



 予想以上に大人の感想文(特に最後)となってしまいました。

 特に最初に読んだときよりもハンナの視座に寄って行ったのが自分としては意外でもありました。尤も未だに(今だからこそ余計に?)30代半ばにして15歳の男の子と関係を持とうとするところは本当によくわからないのですが、かつての己が通ってきた道、若かりし己の経験からしか若人を捉えることができないと仮定するならば、15歳のハンナがどうあったか、ということを考えるのはさほど難しいことではありませんし、やめておきましょう。

 シュリンクの作品はちなみに年上の女性、謎多き女性、生きたいように生きる女性がたくさん出てきて非常に魅力的です。「夏の嘘」も「階段を降りる女」もそうですし、一応最新作の「オルガ」もとても良かったです。「オルガ」は読んだ後で感想文を書いているのでこれもまたリンクを貼っておきます。



 とりあえず夏の宿題は消化できました。昔からそうですが、夏休みの宿題は3日ほどで片をつけて残りの40日近くを遊び倒したい方だったので、社会人の夏休みは40日もないにせよ、休めるうちに休みたいなと心の底から思っています。10行ほどでたやすく矛盾する心とどう折り合いをつけるか。2022年の目下の目標かもしれません。

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