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閉塞した格差社会の若者を考える    ー居場所の喪失と親ガチャ

「親ガチャという病」 社会学者・土井隆義氏の考察は現代の閉塞した格差社会について、親ガチャというキーワードを使って若者への影響を明快に論考している。現代社会と若者の辛さを紐解き対応策を提示した内容が素晴らしいので、まとめてみた。

高原社会とは

現時点での日本社会を、土井氏は、”高原社会”と定義している。

第二次世界大戦の日本で自殺者が急増したのは、1990年代後半でした。この時期は、戦後の日本にとって大きな転換点に当たっていました。国民一人当たりのGDPの推移を見ると、それまでほぼ右肩上がりだったものが、この時期を境にほぼ横ばいへと転じるのです。坂道をひたすら上り続けた時代から、平坦な高原を歩き始める時代へと、社会全体が大きく変貌したのがこの時期でした。

「親ガチャという病」

この時期はインターネットの普及期にもあたっている。ネットの発達が人間関係の流動化を推し進めたが、技術の進歩があったからというより、人間関係の流動化が進んだ結果、ネット上のコミュニケーションが必要になったから発達したのだと説いている。生活の必要性が産んだ技術革命とも言える。それは、現在コロナ禍で急速にオンライン上での仕事やコミュニケーションが拡がったことでも肯づけるだろう。

高原社会とは、自由度が高い分不安定でもある

強固な組織で一つの目標に向かって進んでいた社会では、人間関係も固定化していたほうが都合がよかったのに対し、現在の高原社会では人間関係も価値観も自由度が高い。不本意な関係を強制されることも減ってきた利点の代わりに、自由度が高いことはその関係がより不安定で揺らぎやすくなっている。また生きる意味の空白化に悩み、どこに進むべきなのか見当がつかない大きな不安が生じていると土井氏は指摘している。

高原で狭いコミュニティに居場所を作る若者

このような不安を消すために、若者は似通った価値観の仲間で狭く閉じた関係を築こうとする傾向があり、仲間内での安住がある間はよくても、内部関係に躓いてしまうと居場所が見当たらなくなる。そのため関係を維持していくことが最優先され、互いの悩みを相談し合えるような関係を育むのは難しくなり、居場所の喪失が起こる。

閉塞感、可能性の諦めを表す親ガチャ

「親ガチャ」も居場所の喪失と大きく関わっている現象で、親ガチャは、出生時の諸条件に規定された必然の帰結として、自らの人生を捉える宿命論的な人生観であり、決定論的な人生観が高原社会に登場したのは、今日の時代精神がもたらした必然の産物だといえる。

親ガチャの言葉の使い方には、成育家庭の経済状況だけでなく、頭や容姿の良し悪し、対人能力の有無なども含まれている。それらを親からの遺伝や幼少期からのからの環境で決まる資質や才能と捉え、自分の人生を規定する大きな要因と考えるようになっている。

土井氏は、経済格差が学力格差を生み、格差を広げていくため、奨学金だけでなく、貧困家庭に必要な持続的経済支援が必要だとも主張している。生活圏が分断され、問題が個人かされていくなかで、生育環境の差異が、人生を大きく左右する力が増しているためである。


努力は実らないのか?

これまでの私たちは、自らの努力で獲得した能力を重視する社会を築こうとしてきた。学歴を含めた各種資格が重視されてきたのも、その能力を証明するためで、アイデンティティの確立をしようともしてきた。しかしこのような価値観も時代の流れで変わるものだという意識の変化もある。また、このような価値観で、躓いた人は、大きな挫折感の根拠ともなっていしまい、その躓きを自分の生まれ持った本質に由来するものとみなす考え方が、他者との比較とのなかで修正される経験を持ち得ない恐れを危惧している。自分の思い込みだけがどんどん極端化し加速化する。


大切なのは、異質な他者との交流

居場所の損失は、関係構築の能力を欠いた結果でもなければ努力不足でもあなく、異質な他者との出会いだと結論づけている。自分の思いこみから自身を解放し、新しい自分を見つける為にも、その出会いは重要な契機と成りえる。そのことに気づけるのは、多様な他者との出会いを通してのみである。自助努力だけに任せておいたのでは、このような親ガチャの落とし穴から逃れることは、なかなか困難である。わたしたちは、この努力をあきらめず、社会設計の工夫次第でその出会いを築くことができる。「こども食堂」が多くの人の交流を生んだそのよい一例である。


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