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教員じゃなくなった私は「誰」?

「職業=自分」というアイデンティティーになってしまっている人は、退職した後にご用心。
退職する前、自分も教師じゃなくなることが、こわかった。

生徒の間で交わされるゴシップニュースの注目度だけでいうと、教員時代の私は、どんな芸能人にも引けをとらなかった自信がある。

「○○で会った」「となりに男がいた」「あれは弟なんじゃないか」「いや彼氏だろう」

休日に出会おうものなら、即座にネタになる。私生活も何も、あったものじゃない。

自分以上に、友人たちが「私=せんせい」として付き合ってくれていると感じたことも、よくある。
先生という職業に、どこか好意的で、その友人の知り合いに「私、先生してる友達いるんだ~」と、うれしそうに言ってくれているのを聞いたこともある。
夜は飲みに出たり、休日は様々な職業の人と交流をしていたりしたから、「先生なのに付き合いやすい友人がいる」という文脈で、やはり好意的に話題にされているのを聞いたことも。
勝手な思い込みだろう、と思いながらも、先生だから信用してくれて、先生の割には面白い奴だと思ってくれていて、だから仲良くしてくれているんじゃないか、って思うことも、しばしばあったので、やめたらどんな反応が返ってくるか、こわかった。
そして、心理師という職業の、なってみてより実感することとなった、うさんくささよ。
誰もが知ってる、誰もが認める、とてもわかりやすい職業であった教師に対し、ほとんどの人が聞いたことがなく、一体何をやってるのか分かりにくく、教師を辞めてまでなったと言うと、「ふ~ん、そうなんだ(つまり変わり者ってことですね)」って、聞いた人の顔に書いてあるのを何度も見た、心理師という職業。

教員退職後の、まわりの反応をまとめてみる。

まず、両親。
元職場の同僚に両親の反応(私が決めたことに口を出さない)を伝えたところ、
「親って、意外と娘に言いにくいものだよ。理解者でありたいと思うからね」と言われ、「だからあなたの親の気持ちを代弁する」と続き、
「なんで辞めるんだ?もったいない!」と、半分叱り口調で言ってくれた人がいた。
そのときはピンと来ていなかったが、やっぱりその人が言うとおりで、自分が定年退職まで勤め上げた教職を、私生活を犠牲にしたかもしれなくても、その価値がある職業だと父が思っているのは伝わってくる。
だから、それを娘がやめてしまったことに対する隠しきれない残念な気持ちが、ときどき滲み出ているのをキャッチしてしまう。
私も教員という職業自体は、向いている人にはすごくいいと思うし、身を犠牲にしてまで働く働き方を悪く言うことはやめようと心に誓った。教員を悪く言う人に同調するのも絶対にやめようと思った。

次に、ある友人。「先生してる友達がいる」っていうのを別の友人にうれしそうに話してくれた友人。会ったら何かモヤモヤすることを言われるんじゃないかと少し心配していたが、退職してからも、全く何も変わらなかった。鮮やかに、いつもどおりだった。これに関して、その友人を見直した。

また、別の友人。その子には、学校で様々なことが起きるたび、「ちょっとつらい、きつい」と、こぼしてきたつもりだが、どんな大変だったときでも、私生活のズタズタさをユーモア混じりで笑いながら話していたため、いまいち本当のしんどさが伝わっていなかったようだ。
なんで辞めたん?どんなにつらいときでも、あんなにがんばってたじゃない?生徒のことすごい考えてたじゃん!給料だっていいのに!楽しそうに見えたよ!どうして?どうして?と、本音で言ってくれた。
意外と直接そう言ってくれる人って少ないなって気づいて、言われた直後はモヤモヤしたけど、それは痛いところを突かれた故のモヤモヤであるのは明白だ。

同様の反応は、祖母からももらった。
祖母は昔の人の考え方そのもので、孫が先生ということに誇りを持っていた。
さらに、孫の教え子が立派に活躍していることも、自分は会ったこともないのに喜んでいた。
祖母に悪気はなく、「どうしてそんないい職業をやめたんだ。お金だってなくなっただろう」って、会うたびに言われる。
全く友人や家族の前で落ち込んだ姿を見せることがなかったから、どれだけしんどいかが伝わっていなかった気はする。演技でもいいから、つらそうにすべきだったかなぁとか、考えてみる。
しんどいから辞めたわけでもないし、どこへ行っても、何をしても、のびのびと暮らしていくのみだ。

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