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日々是妄想: 時には読書のススメを

母性本能は標準装備と思ったら大間違い。
村山由佳著『放蕩記』を読んで考えた。

まるで私のことのようだなどというありふれた感想はないけど、何となく、そういうことだったかも知れないと、腑に落ちる昭和育ちの女性は多いと推察する。
母親はどこかで私を羨ましく、妬ましく思っていたと思うと妙に腹落ちする部分があった。
“自分だってこの子のように自由に社会の中でキャリアを持ちたかった“  知るすべはないけど、母親がそんな思いを心に抱えていたとしても不思議はない。
”自分の方が上手くできる筈なのに”
そんな風にも思っていたんだろうか…

家族は最小単位の社会である。社会であるからにはメンバーはそれぞれの役割を果たさねばならない。役割は慎重に考えて割り振る必要があり、家族ごとにルールは違っても本来は構わない。何故なら正解はないから。(ロールモデルはあったにせよだが、合わせる必要性はないはず)
各自が独立し、依存ではなく共生することを考える。尚且つ、個人が尊重されるのが望ましい。当たり前のようでこれが難しい。家族社会における子供の立場はとても微妙だった。
昭和30-40年代、私は親の所有物ではないと表明するには、反抗は手っ取り早い自己主張だった点は否めない。結果的にではあるけど、一人で過ごすことに早くから免疫が付いたのは良かったのではないだろうかと思っている。

母性本能ってなに?
家族社会において当たり前とされる母親の母性本能に、日常の大半を期待するのは無理がある。そもそも家事に母性は必要なかろう?家事はシステマチックにこなせなければ続かないくらい習慣と創意工夫が求められる頭脳+肉体労働である。それが本能で出来たらすごいことに違いない。何事も最初からすんなりできるくらいなら、苦労しないしする必要もない。それが母性本能で片付くと思ったら大きな間違いである。
通常は日々、実践することで身につく。そこは能力差があり一概には言えないが、ボケた時に最初に支障をきたすのは家事なのは間違いないと思う。だって難しいんだから。家事を安易に考えてはいけない。様々な要因を考え段取るを、日々続けることの大変さを本能であって、当然とされるのは心外であると今ならよくわかる。
もしかすると母親はdutyとしての母性に苦しんだかも知れない。当たり前とされた役割を上手く演じようとして出来ず、私にいちいち訂正されるのもストレスだったと思う。
その上「普通の家族」という幻想に、家庭は簡単に蝕まれていたことに今更ながら気づいた。時代の趨勢には逆らえなかったにせよ、ある種のトラウマが自分に残ったことは否めない。
そして《普通という幻想》の持つ同調圧力は、残念ながら今でも有効という気がする。

読了後の直感的感想は
「母性本能は標準装備じゃない」
「演技は誰もができるけど上手い下手はあって当たり前」
「母親役も娘役も基本は女であることから逃れられない」

母性本能は標準装備ではないと気づいた主人公の苦悩は察するに余りある。早くから母親を自分から切り離そうとしても、切り離しが難しい母娘関係性であることに悩みと苛立ちを抱えてしまう。
故にこうなったらどうしようという恐怖は呪縛のように付き纏う…それはまさにそうだった。

母と娘を軸にしているけど、父親と兄の思いが最後に明らかになることで、社会との関わり、客観的にみた家族の様相が見えてくる。
家族ではあっても人格は別物、共に暮らすうちに似てくることはあっても、元は偶然の集まりに過ぎない。その偶然は奇跡でもあり、同じ集団はあり得ない。
にも関わらず、普通という概念、母性本能という幻想に縛られる母親が一番不遇なのかも知れない。
ついでに言えば、隣の芝生が青く見えるように仕組むのが資本主義で、経済成長の原動力にもなった。

そんな高度成長期の昭和育ちで、母親との関係に悩んだ娘(特に長女)は、ママみたいになりたくないと屈折した思いを抱きながら成長し、結婚しても子供が欲しいと思うこともなく離婚した。母性はあったかも知れないけど普通の家族を思い描くことも演じることも出来なかった。家庭内での役割を演じることに自信が持てなかった。
あぁそういうことだったんだねぇ。
そんな気づきを今更だけど知ることになった一冊。
隣の芝生は決して青くないと知った今だから冷静に分析しながら読める。親の価値観に逆らいつつ、成長した子供たち(サバイバーたち)には、特に読んで欲しい。
子供時代は取り返せないけど、振り返ってみたら違う景色が見えるかも知れないから。

この絵も気になった。カバーは大事。

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