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日々是妄想: その違和感、どこから来るの?
第8回横浜トリエンナーレ
“野草: いまここで生きてる”を観に行った
本日のコース(2024/4/28)
横浜美術館10時集合からのBankART KAIKO、旧第一銀行横浜支店、シメは中華街で打ち上げ。
お天気: 快晴
観終わってもう一度、今回の展示に関するステートメントを読み返してやっと、理解する糸口が見つかった気がした。pandemicというこれまで経験したことのない緊急事態を経て、私達の生活は否応なしに変わった。戦争の世紀であった20世紀から引き継いだ火種は消えることなく、今もくすぶり燃え続けている。対立はますます目につくようになり、閉塞感はpandemic後も広がる一方。世界は少しも良くなっていない。。。
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魯迅を引用した意図もそこにあると思われる。およそ100年前に書かれた『野草』版画によって人々を啓蒙しようとした魯迅。
版画は道具があれば一人で制作から印刷まで完結できる。複製することも容易く、何より其々の身体を使って作れるメディアだと気づいた。
同時に思い出したのは60年代から70年代にかけて盛んだった学生運動。バリケードで封鎖された大学にはアジテーションが書かれた横断幕や立て看板がところ狭しと並んだ。学生達は自らガリ版刷りのビラやチラシを作り、自己主張を盛大に撒き散らした。その光景は毎日ニュースで取り上げられ、荒々しい字面が画面を騒がせていた。
そうか、そういうことか。不意に思い出したイメージは目の前の光景とオーバーラップし、自分の中で過去と未来が繋がった気がした。
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例えばギャラリー9の展示はそのイメージを再現してる様にも見える。ダンボールという素材を多用しているのもさもありなんである。
展示室ごとに書かれた文字はアジテーションを思わせ、版画で作られたあれこれはガリ版刷りのチラシに似てる。ギャラリー2の展示もそうだ。戦っている人達の最中を再現している。この展示はまるでバリケードじゃないのか。ある意味でデジャブだったりもする。
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歴史は確かに繰り返されている。抑圧され搾取され苦しむ人はどこにでもいるし、実は私たち誰もがそういう立場にあるのかも知れない。けれど、私たちに当事者意識はない。だって見えないのだから。そもそも人は自分の見たいものしか見ない。そうやってフィルターをかけることも、日々を生きる知恵で未来あるのだから。
そして自分が感じた違和感はそこから来ていると気づいた。普段、目にしない事柄が可視化されそこにあること。それに対して多少の罪悪感と共に違和感を感じたのだ。
現代アートはそこにある課題を可視化して見せる。
時としてそれが決して美しくもなく癒しでもないにせよ、知見として知っておくべき事柄でもある。外が明るければ明るいほど、闇も濃くなる。その当たり前を意識させる内容でもあった。
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今、ここ、自分(即今、当処、自己)
禅の教えにある言葉。過去や未来に囚われず、今自分ができることに集中して生きる。
展示は過去と現在を対比して見せながら、その先の未来については語っていない。そこは其々の主観に委ねられる。歴史は変化しないが繰り返す。過去の確執が未来を変えてしまう現実は表層だけ変えてもそこにある。それは事実であり幻想ではない。よく考えればとても重たい現実なのだ。何かしらの犠牲によって立つ今という時間。それでもひとりひとりは生きて生き抜いて生をまっとうする定めがある。
不平等が無くなる世界は多分、来ない。来ないから戦うしかないのだと思うと人間の業の深さに打ちのめされそうになる。できることなら武器ではなく知見の多さで力としたい。他者の視点に耳を傾けることで視座を広げる助けになる。故にその難しさから逃げないことを心掛けたいと思うのだ。違和感は違和感として、それもまた私の感覚なのだから、向き合って流さない。案外、それが難しい…
美術館前に野草が植えられた花壇が連なっていた。
以前あった水が張られた場所は埋められ、野草が代わりに育っていた。陽を浴びてすくすく伸びている野草の横で、多くの人が春の陽射しを浴びて寛いでいた。子供達はその周りで屈託なく走り回る。
この平和な光景が1日でも多くある事を願う以外、私にできることはないんだろうなと思いつつ、中華街で楽しく飲んで食べて帰った大人の遠足だった。それも今を生きてる私の日常なのだ。
いつもはソロ活だけど、こういう重層的な展示はひとりより多い方がいい。ご一緒したアートトの皆様には心からありがとう😊とても楽しい1日だった。
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