見出し画像

広島旅。ぶらぶら散策。

ホテルを出る。広島中区へゴー。

原爆ドームを目指す。

その前に腹ごしらえにドンキの冷やしいもを発見、食べる!!!
ドンキの冷やしお芋さん、うちの地元になかったのでこれは嬉しい。

うめぇ。。。!

遠出した甲斐がまさかのドンキで報われるとは、、、!

小腹を満たしたところで市内の通りを原爆ドーム方面へ向けてぶらぶら散策。
平らで歩きやすい土地。見慣れない路面電車も広島の街並みらしくて新鮮味を感じる。
ところどころで見かける、広島飯屋。
汁なし坦々麺。牡蠣。うわあ美味しそう。
お芋さんでお腹満たしたので素通り。今度来た時に食べ行こう。


ぶらぶらと寄り道。広島の街並みを目一杯に吸収しつつ、平和の遺産へとたどり着く。

早朝の広島、えびす通り。

ゆったりとした風に包まれ、夏らしい日差しは雲に隠れたまま。周辺は物静かで、厳かで、かつてこの場所で起きた出来事が人々を神妙な面持ちにさせているかのよう。原爆ドームを眺む外国人のツアー団体。家族づれ。カップル。僕と同じような一人旅者。様々な観光客。皆同じような気持ちであること。平和を願いここに辿り着いたのであろう。そんな表情である。


撮影。

原爆ドームについて。

少しお勉強させていただきました。

原爆ドームはかつて経済成長が著しい広島の産業拡大に伴い、更なる都市発展と雇用創出の為、広島の物産を紹介、陳列、販売することを目的に1915年に竣工。
設計者はチェコの建築家ヤン・レッツェル氏。

前身は、1878年。物産陳列館として建てられ、物産を陳列して紹介したのが始まり。

また日清戦争時の大本営設置、帝国議会の会場に指定される等、軍需産業の発展の軽機となる。それに伴い、経済や文化の発展の中心地となった際にこの施設が使われた経緯があり、文化の中心地的な役割でした。そのため広島のシンボルとして人々に親しまれてたそう。

とまあ素敵な役割を担っていたそうで。

そんな建物が1945年8月6日。一つの原子爆弾によって、見るも無残な姿となりました。

人々の心に、平和を願うシンボルとして刻み続ける原爆ドーム。
僕は戦争を肌身に感じたことはない世代ですけど、戦争の悲惨さを知ろうとする姿勢は幾つになっても大事にしないとな、と強く思った次第です。

平和記念館で当時の遺品や被爆者のメッセージ、被曝体験者の手記や絵画を拝見。今、街の至る所で見る普段の光景がこんなにも穏やかであることを実感。先人たちの残した遺産を目にし、つくづく今の平和に感謝したい。心の底からそう思います。

僕たちが穏やかに存在し続けることができるのは先人達の苦悩が大前提であることを、意識して生きねばなりませんね。

ふらっと逃避行した先の広島で、改めて大切なことを学びました。

そのあとは折り鶴タワーでゆらゆら風を浴びながら、ぽけーっと穏やかな広島の街を眺めておりました。

夕暮れの街並みはどこも美しいな。
心が浄化される。。。

改めて、そんな気持ちでいられる平和に感謝。

--
memo

原爆後遺症。
吐き気や食欲不振、下痢、頭痛、不眠、脱毛、倦怠感、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、発熱、口内炎、白血球・赤血球の減少、月経異常。

黒い雨。
核兵器、原子炉事故等による核爆発で生じた放射性物質と、高熱で瞬時に燃焼した家屋、樹木の 煤 すす などが強い上昇気流に乗って高空に達し、発生した雨雲からとなって落下したもの。 煤が溶け込んで黒い。 放射能を含むため浴びると人体に影響あり。原爆で罹災した人が水を求めて黒い雨を口に含み、それが原因で原爆後遺症を発症。多くの人が亡くなった。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?