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正論とはそもそも何だろうか。

どうも。最近ちょびっとずつフォロワーが増えている純一思想家です。1日1人ずつくらい。私の固いお話でも喜んでくださるのであればそりゃもう嬉しいです。
この太字部分の挨拶。実はこちらを読んでやってみようと思いました。

ノート公式本だということで読んでみましたよ!まだ途中ですけどね。
スキとフォロワーは気にしないでいいと書いてありました。私の考えと一致しますが、やっぱり増えた方がうれしいし楽しいですね。


さて、私は自分はこれが正しいな~と思ったことを言うのが好きです。でも、正論は批判的でもあり、共感性に乏しく、その場の空気を乱す・・・というデメリットがあるようです。

ノートを見てみると、正論はやめなさい系の記事が多いのも事実。でも私はやめたくありません。純一思想家とはだれであるか!純一思想家とは、純一思想家である!私が私でいられぬ場所にいて何とする。それなら私はいなくてもいいということを自分で認めたようなもの。今までの記事で価値は全て主観が決めると書いたことがあるが、例え周りが自分に見出す価値が0でも、それでも私はここにいる。(半分強がりです。)

これの真似です。

御託はこれくらいにしておいて、正論ってそもそも何だろうと言うのが疑問でした。ここに疑問を持ち始めると、やっぱりこうなります。


こうはならないでください。お願いします。フォロワーさんたち。

「正しいって何だろう?」

ということですね。一体何が正しく、何が間違っているのか、よくわからない世の中になってしまいました。

綺麗な善人と綺麗な悪人がいて、綺麗な善人が綺麗に悪人を成敗するという綺麗な流れはとうに昔の話。物語の上での話です。

結論から申し上げると、この世界には、正しいも間違いもありません。

どういうことかというと、過去の記事と関わるのですが、正しいというのも、「正しいと言う評価」なのです。間違いというのも、「間違いという評価」なのです。ただそれだけなのです。

そして、それを決定しているのが、主観なのです。しかし、主観は人の数ほどありますよね?では、私たちは一体何を基準として正しいことがあると考えているのでしょうか?

それは場合によりけりです。

ある人は、自分のお母さんの言うことが正しいと言う。またある人は、学校の先生が言うことが正しいと言う。またある人は、自分の信じている宗教の教義が正しいと言う。またある人は、自らの経験によって感じ取り、考え抜いたことが正しいと言う。(それは実験などの結果を踏まえた客観的なデータであることも含む。)またある人は、お金こそが正しいと言う。またある人は、綺麗なお姉さんの言うことが正しいと言う。またある人は、かっこいいお兄さんの言うことが正しいと言う。またある人は、自分の好きな人が言うことが正しいと言う。またある人は、地位の高い人の言うことが正しいと言う。またある人は、仲間の言うことが正しいという。またある人は、法律こそが正しいという。またある人は、仕事が第一という。またある人は、道徳が正しいと言う。そしてまたある人は、事実のみが正しいという。またある人は、学歴の高い人間や、専門家の意見が正しいと言う。

何を正しいというのかは、実は人の評価なのです。これが正しいんだと私たちが考えちゃったら、それが正しくなります。逆に、私たちから離れたこの世界からすれば、正しいものも間違っているものも、どちらもありえません。

私がもし人を殺したとします。皆それを間違った行為だというでしょう。では、私たち人間社会の外からそれを見たと仮定すると、「AがBを殺した。」という客観的な事実がそこにあるだけです。事実を正しいといいたくなる気持ちはわかりますが、事実に対して正しいと言ったところで意味がないのです。なぜなら事実は事実ですから。

人間はとりあえず正しいものが何であるのかを設定してもらえないと、なかなか身動きが取れないのです。正しいことが何かがわからない状態で、皆が正しいと思う方向に進んでいいよ、ということになりますと、皆が自分の信じた通りに行動してしまうことを許してしまいます。すると、皆が一斉に道路に飛び出て、ピンポン玉のようにはじけ合う世界が作られてしまうわけですね。これは結局のところ、カオス・・・。無秩序です。

しかも、一度設定した自分の正しさを最後まで貫き通す人間がいるとは思えません。その場その場でコロコロ自分の信じることが変わる人間が大多数のような気もします。

私たちがどのようなプロセスで正しいと間違いを見分けるようになってしまったのかというと、教育が大きな原因を占めています。機械学習というプログラミングの学問分野では、教師あり学習と、教師無し学習というのがあります。これと同じように、私たちが学校で受ける授業は、教師あり学習と同じです。

まず、教師あり学習では、「正解」とされたものがあり、私たちはそれを後からなぞるようにして学んでいきます。

漢字の「正」の文字はこうです。と先生が示します。なるほどそうかと私たちはそれを一生懸命覚え、漢字テストでその通りに書きます。そして私たちは、先生たちから「正しい答えを出した。」と評価されます。

では次に「善」という文字を教えられます。私たちは、その漢字も一生懸命学び、漢字テストでその通りに書きます。するとやっぱり、学校の先生は「正しい答えを書いた。」と評価してくれます。

ところが、善という漢字には旧字体があります。「譱」という漢字です。こちらを書いたら間違いなのでしょうか?そう、今の学校教育なら、まず間違いなく、「間違った漢字を書いた。」と評価されるはずです。というか先生も知らないかもしれませんね。

しかし、旧字体の方がどちらかというと正しい漢字であるはずです。それなのに、お前の回答は間違っていると言われてしまう。

ここでもうわかりますね。正しいとか間違っているというのは、結局は主観的評価にしかすぎないということです。

そして、ここで恐ろしいことが判明します。こうした教師あり学習を私たち人間に続けていき、それらを鵜呑みにしていくと、あたかも「学校の先生が言っていることが正しい」と考える生徒ばかりになってしまうんですよね。

学校教育の真の目的はそこにあるように思います。そうすると、権力者たちは自分の言う通りのことを国民に言えば、国民はそれが正しいと思ってくれるからです。

ところが、これは大間違いなのは歴史が証明しています。で、別に教師の言うことが正しいなら正しいでもいいんです。問題はもっと深い所にあります。

もし教師がいなくなったら、私たちは何を手掛かりとして正しいものと間違っているものを判断すればいいのでしょうか。学校で習うことなんて、人生のほんの数パーセントのものだけです。

実は、ここには学校教育の恐ろしさがあり、かつて戦争に私たちの気運が向いて行ったのと全く同じ原理が潜んでいるわけですね。今もいると思いますが、戦争を正しいと考える人が多くいました。戦争とは正しいものだとか間違っているものだとかは、私は言えません。ですが、本当に恐ろしいのは自分達で考えずに決めちゃっていることです。

私たちは悲しいことに、自分で正しいものが何か・・・を導き出すことができないのです。ほとんどの人間はそうです。この社会が経済活動を行うことで回転しているのは、ほとんどの人間が、お金の獲得を目指して生きることを、自分の「正しい道」として設定しているからです。それには大きな理由があります。言うまでもないかもしれませんが、そうしなければ、自分が飢えて死んでしまうからです。

これは逆に言えば、「自分が死ぬ道が間違い。」と自分でいつの間にか評価していることになります。

でもね・・・。あなたは死んだ方がいい・・・それが正しいとすればどうしますか?ですから、生きようとして一生懸命頑張って、結局人から間違いだと言われる道を歩んでしまう人間は多くいるわけです。オレオレ詐欺者や、裏金政治家なんかも全く同じなんですよね。

冷徹な一言も正しいことがあるんです。

じゃあ死ねっていうの? うん。 みたいな感じ。

でもやっぱり、彼らの道も正しくも間違いもない。詐欺事件も裏金事件も、どちらも、この世界では、ただ「起きた。」か、「起きなかったか。」だけです。

ただ一切は過ぎ去っていきます。(太宰治「人間失格」)

そういうものです。もし正しさを、理系的真実、つまり、数学や物理などの客観的な世界で証明されたことのみ正しいと考える人がいれば、それでは解決できない世界だってあるわけですね。例えば、原子爆弾を作るうえでは、理論が正しければ作ることができました。しかし、それを使うか使わないかについては、理系の範囲ではなかなか判断ができません。理系の頭で考えるのならば、使うべきか使わないべきかではなく、使うと何がどうなるか、どうなったか、ただそれを追いかけるのみではないかと思います。そこには、実証しえない選択肢が存在しており、その答えは科学が決定するということはなかなか難しいのではないでしょうか。(これからはAIがしてくれるのでしょうか。)

私たちが教師無しで生きる道に立たされた時、果たして何が私たちを導いてくれるのでしょうか?それがわからないのです。ですから、人は宗教にすがることがあります。宗教がいつの時代もなくならないのは、教師無しの世界で、つまり正しさも間違いも設定されていないこの世の中にあっても、人は何が正しく、何が間違っているのかを設定して生きなければ生きていけないという心理的な事情があるからなのです。

そういう意味では、みんな宗教に入っていると言えるでしょう。

何も信じられない世界ならば、自分が信じる道を行くしかない。それが正しい道だと自己評価していくのです。

したがって、その道がなかなか見えない人がいたりして、そういう人の何人かは、新興宗教にはまり、その道を信じて生きていくことになりますし、自分よりも強い立場の人の言うことをきいていきていくことになったりします。

で、今のトレンドですが、「自分が楽しいと思うことを見つけ、それをやりぬこう。」というのが正しい道だと評価されていますし、支持者もすごい多いわけです。

正しさとは、結局は主観が作り出すものです。間違いも、結局は主観が作り出すものです。

ロシアのウクライナ侵攻、ミャンマーの虐殺、中国の香港制圧。こうしたこともみな、正しいという人間がいれば、間違っているという人間がいるのは、そのためです。驚いたことに、あの北朝鮮を正しいという人もいるのですね。韓国にはわざわざ北へ自分から赴く人もいるのです。

民主主義の恐ろしさもここにあります。人がどれほどその人を正しいと考えてしまうか。それによって決められてしまうのですから・・・。

結論。正しいも間違いもこの世界にはない。全ては人の主観で決められており、結局正しいとされていることは、上の人間たちからのプロパガンダで決まることが多い。

もし教師無しで正しさを導ける人になりたいのであれば、それは常識を疑う力をもち、飽くなき探求心と勉強、謙虚なる観察、自分の考えに満足しない態度・・・いろいろなバランスを持って考え抜く必要があるわけです。

近未来、AI教のようなものが人々の新しい正しさの設定基準として人々の意識の中に確立されるのではないか、とも考えています。

ここまで言っておいて、なのですが!正論というのは、ちょっとニュアンスが違うように思うんですよね。単に正しいとされていることが正論というか、何か、上から目線で下の人の立場とか一切捨象して、ああすべきだ、こうすべきだ、これはダメ、あれはダメっていう押し付け論的なニュアンスがあるように私は感じています。

ですから、この記事のタイトルは、正しいって何なんだろう、とした方がよかったかもしれません。













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