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小説「素ナイパー」第23話

初夏のマルセイユは晴れていた。
潮の香りを纏った風は湿気を含んでいなく、多くの観光客達が着ている麻のシャツと身体の隙間を心地よく抜けていく。オープンテラスのテーブルで白ワインとブイヤベースを食べている彼らの表情には満足そうな笑みが浮かんでいた。

 そんなマルセイユの海沿い。白いレンガ作りのリゾートホテルの一室に直哉はいた。窓を開けカーテンを閉め隙間からライフルの銃身とスコープだけを覗かせ寝そべって標的を狙っている。

 その視線の先には海に浮かぶヨットが見えている。船首には一人の初老のフランス人がゆったりと座り釣り糸を垂らしていた。
 標的を見つめる直哉の瞳はバカンスを楽しむ観光客のように再生に向かい澄んではいなくどこか悲しげだった。ほんの数週間前に再会を願っていた女性と一夜を共にしたとは思えない程に。

 ニューヨークで数回知子と会った。会えば会うほど、彼女は自分が求めていた知子ではないことを知った。一つ一つの所作が大人びていて、周りから見れば完璧な女性だと思う。しかし今の彼女に会うと、喜びよりも吸い込まれ全てを侵食されるような感覚に陥った。高校生の頃の彼女も大人びてはいたけど、その時とはまた違う危うさが伴っていた。

 ただそれは、自分の成長が彼女に追いついていないだけだとも思えた。何も変わらずただ知子を思っていた自分の成長は止まってしまっていて、ただ昔の思い出を美化していただけだと。

 だから直哉は彼女に追いつきたかった。求めていた人はもういない事を知り、恋焦がれるような純真な気持ちを失くしていても、誘われるがまま逢瀬を繰り返した。過ごす時間を増やせばきっと彼女に追いつけるかもしれないと。


 ただ、ワインを飲み見つめられ厚い唇にキスをするといつもすべてがどうでもよくなった。艶かしい彼女の手に誘われるまま、ただその身体に溺れた。いつも言葉を交わすことなく動物のように抱き合う。ただそれだけだった。放出した後の朝に残る気分の悪さ。愛も優しさもないSEXの後は満たされるどころか乾いた。だけどどうしていいかわからなかった。

 アメリカ製狙撃銃バレットM82A1のスコープを覗きながら、直哉は波によって浮き沈みするヨットのテンポを計っていた。
 風は北東から吹いているが狙撃の邪魔になるほどではない。数艇のヨットが標的の周りにいたが、どれも岸の近くにいるので波の崩れる音が勝り銃声を完全に消してくれるだろう。
 両隣と上下の部屋に誰もいない部屋を借りていたので、ホテルの客に銃声を聞かれる心配もない。長距離射撃の場合サイレンサーを使うと微妙なずれが生じるので今回は使えないがその点の準備は万全だった。
 波頭がヨットの底に潜ると、標的の頭は直哉のスコープに現れ通過すると消えた。

 「1、2。1、2」

 子気味良くテンポをとりながら、あと2 回それが続いたら引き金を引こうと直哉は決めた。神経を指とスコープに映るターゲットに集中させる。
 次第に心はフラットになり狙撃銃と身体が一体化したような感覚に陥るはずだった。しかし直哉の心には集中を妨げる邪念があった。その脳裏に知子と自分の痴態の映像が浮かび始めるとコンマ数秒ずつテンポがズレ始めた。

 直哉は頭を軽く振り頭の中の映像を取り払おうとしたが、集中しようとすればするほどその映像は絶え間なく浮かんだ。
 チャンスは今日この日しかない。クライアントの期限は迫っていた。頭の中の映像と格闘しながら、直哉はスコープの中を覗きテンポを取り続ける。

 「1、2。1、2」

 次の瞬間に引き金に力を込めた。夏の緩い空気の中を銃弾は何にも遮られる事無く、青い空を背景に進んでいった。そしてターゲットである初老のマフィアのこめかみに命中したように見えた。ターゲットは衝撃で船首から海に落ちた。

 その時、直哉はすでにスコープから目を外していた。詳細まで見えない裸眼で標的が海に落ちてできた水疱だけを確認するとすぐさま身支度を始めた。そしてその足はニューヨークに向かうための飛行機が待つ空港に向けられた。

 最近では間をおいてしまえば、知子の映像は連射カメラのように浮かび、仕事にもならなかった。麻薬を欲する常習者のように、直哉は幻想の快楽から逃げられなくなっていた。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。