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小説「素ナイパー」第17話

 汚いアパートが立ち並ぶ地区を抜けイグレシア駅方面に向かうと閑静な住宅街が軒を連ねる地域に辿り着く。フレオは自分の住む部屋の数十倍はある家々を羨ましそうに眺めた。
 やがてこの辺りでも一際大きい家の前に立つとその周りを取り囲む塀によじ登った。そして塀の上からリビングでくつろぐ家族を眺めた。

 ソファでは父親が新聞を読んでいてその横では綺麗な服を着た娘と息子がテレビを見ている。母親はキッチンで料理をしている。フレオはその光景を舞台でも見るかのように羨まし気に見つめていた。
 星空はその家を照らす照明で月明かりはその舞台に出ている家族のスポットライトに思える。そして自分はその舞台に出演できないただの観客だ。

 やがてフレオはいつものように想像の中でその家族に自分を入り込ませた。裕福な暮らし。ピースの揃った家族。サッカーが上手くいかなかったら父親が励ましてくれ、スパイクが壊れたら母親におねだりする。その想像の中にはフレオが求めるもの全てがあった。
 ありとあらゆる想像を終えるとフレオは我に返った。すると家族を見つめていた羨望の眼差しは悲しみを含んだ。塀から家族までの距離があまりにも遠く決して叶う事のない想像だと言われているような気分だった。
 耐えられなくなると今度は星空を見つめながら想像した。すると全てを想像し終えたはずの思考はまた新しい想像を作り出した。
 その想像はまるで星になったギリシャ神話の神達が、哀れなフレオのためにせめてもの慈悲を与えたような幸せの極みのようなものだった。

 直哉はそんなフレオの背中を見つめていた。殺すタイミングは何度もあったがフレオの背中から滲み出る哀愁のせいでなかなか踏み出せずにいた。
 フレオの物語に関しての情報はなかったが生活ぶりを観察していた直哉には彼が豪邸に住む家族に対してどんな感情を持っているかは容易に想像できた。
 彼の過ちは決して大きいものではなかった。あの路地に現れたのがたまたまロシアマフィアの息子だったと言う事で人生を終らせなくてはならないなんて運がないとしか言いようがない。
 いくつもの過ちを繰り返しながらすべての人間は生きていると言うのに彼はたった一度の過ちでその人生を終える。それはあまりに不条理ではないかと。

 それでも直哉は少しずつフレオの背中に近づいて行った。どんな背景を持ったターゲットであろうと仕事は遂行しなくてはならない。しかしフレオから伝わった悲しみが直哉の迅速さを緩慢にさせていた。そこに彼の甘さがあった。
 月明かりが浮かび上がらせた影が、次第に二人の影を重ね合わせてゆく。フレオまであと5メートルとなったその時、フレオが急に反転し2人の目が合った。直哉は慌てて歩を早め素晴らしい跳躍力で塀に飛んだ。

 しかし咄嗟に身の危険を感じるとフレオもサッカーで鍛えた脚力を使い塀を飛び降りた。二人は夜の闇の空中で交差する形になった。
 塀の上に立った直哉は、慌てて振り返った。しかしフレオはすでに駆け出していた。それを確認すると直ぐに塀を降り追いかけた。

 鍛えた夜目のおかげで外灯のない貧民街に入ってもフレオの姿は見失っていない。その時だった。
 走るフレオの前にゆっくりとした足取りで人影が現れた。すぐに直哉はそれに気付いたが、後ろの直哉を気にしながら走るフレオは人影に気付いていなく走るスピードを緩めようとはしなかった。
 すると人影が足を広げ後ろ足に重心を置き半身の体勢になった。直哉はすぐにそれが蹴りを繰り出す体勢である事に気付いた。

 「フレオー!」

 直哉は叫んだ。さっきまで殺そうとしていた相手に危険を回避しろという思いを込めて。このまま彼が人影の間合いに入ればその先の結果は読めていた。
 しかし呼びかけは火に油を注いだ。思いを込めた直哉の声はフレオの追われる者の恐怖を煽り憧れのレアル・マドリードのマルセロが左サイドを駆け上がるようにその足は更にスピードを上げた。

 (この速さが試合で出せれば、俺はきっとレギュラーだ)

 とフレオはこの状況下でふと思った。しかし次の瞬間に首筋に感じた何かの堅い感触と、自分の首が奏でた「ボキッ」という鈍い音と共に意識は無くなった。
 フレオが倒れても走る彼を取り巻いていた風はまるで残像のようにそのままグラン・ビア地区を駆け抜けていった。
 その風は眠りについていた母親の睫毛を揺らした。やがて母親のその瞼から涙がこぼれた。母親の左手にはクシャクシャに丸められたユーロ紙幣が握られていた。

 バラハス空港のロビーで壁に掛けられた時計を眺めていると世界共通の直哉の携帯電話が鳴った。

 「もしもし?」

 液晶に父と表示されているのを見たとき直哉は迷った。昨晩の出来事をどう話すかまだ頭の中で整理できていなかったからだ。
 直哉は八度着信音がなった後、深呼吸をしてから通話ボタンをようやく押した。

 「無事に済んだみたいだな」

 しかし断定するような淳也の口調を聞いた時、素直にすべてを話そうと決めたはずの直哉は思わず「はい」と答えてしまった。

 「ニューヨークの仕事はそう簡単じゃなさそうだ。気を抜くなよ」

 淳也は無機質にそう言うと電話を切った。

 (いったいあれは何者だったのだろうか?)

 フレオに見事なハイキックを見舞った者の身元は不明だった。ターバンのような物を顔に巻いていて顔を確認することはできなかった。
 ただその正確無比な蹴りの軌道からプロであることはは疑いようもなかった。あっけにとられている直哉の元から立ち去る所作も無駄がなく迅速だった。
 しかしフレオを殺した人物が同業のものだったとすると直哉には大きな疑問が浮かんだ。

 (何の目的で?)

 フレオが恐喝以外の悪さをしていた事は考えにくかった。一週間張り付いていて怪しい行動は一つも見受けられなかったのだ。

 (俺に依頼してきたロシア人みたいに、誰か別の大物の娘かなんかから金をとったのかもしれない)

 と考えてみたが殺し屋二人に狙われるような偶然があるだろうか?頭を働かせ様々な仮説を立てていると直哉が乗る飛行機の場内アナウンスが流れた。時計を確認すると搭乗の時間になっていたのでゲートに向かった。

 ゲートには日系人のキャビンアテンダントが立っていて直哉の思考は取り出したチケットのニューヨークという文字とその日系人をまるで連想ゲームのように知子という答えに結びつかせた。

 するとフレオを殺した人物に対する考察はものの見事に消え去った。飛行機が飛び立つと次の仕事の事さえも忘れかけてしまうほど直哉の心は弾みだした。こういう時だけ直哉の未練がましさはなりを潜める。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。