見出し画像

良縁・悪縁とは一体なんなのか

【諸行無常】
世のすべてのものごとは移り変わり、一瞬といえど同一ではないということ

日常生活ではネガティブな意味で使われがちですが、本来はポジもネガもなく、例えば老いてしまうことや、情熱や交際が続かないようなこともあれば、辛い出来事を受け入れたり忘れられることや、悪い状況もいつかは好転する可能性があるという側面も、諸行無常の考えであったりします。

【諸法無我】
世のすべてのものごとは因縁によって生じるものであり、不変の実体は存在しないということ

「私らしさ」や「これはこうでなくてはいけない」という感覚や定義は全て錯覚であり、自身やその他の物事に求められる役割やふるまいというのは、周囲との関係性によって導き出されること。
諸行無常と合わせると、周囲との関係性というのは常に流動的であるので、人柄やふるまい・人生などに対し、普遍的・不変な模範像や正解などというのは存在しない、という考えです。

【縁起】
他との関係が縁となって生起すること

すべてのものごとは周囲との関係性によって存在が認識され、役割や期待値、優劣といった感覚を実感できるということ。
例えば「パティシエ=お菓子作りの専門家」というのは、お菓子作りを専門としていないその他大勢の人たちがいるから、職能として認識できることや、お菓子づくりがどれだけ魅力的で価値があるかは、お菓子が好きな人がどれだけ多くいるかによって決まる、といった概念です。
他にも親と子、上司と部下、好きと嫌い、高価と安価、人気と不人気など、すべてのものごとは複数の関係性による対比軸があるから、その存在を認識し、意味を解釈することができるという、とても数学的な考え方です。


さて、この縁起という考えに当てはめて、生きる上で非常に難解な問いの1つが「縁に良し悪しはあるか」「良縁・悪縁というのは存在するか」というものです。

確かに飛び上がるほど嬉しいことや、二度と関わりたくない身体的・精神的苦痛を伴う関係、というのは誰もが体感したことがあるはずで、明らかに深めたい良縁や、断ち切りたい悪縁、というのは感覚的には存在しそうです。

それでは、どの縁が良いもの(深めるべきもの)で、どの縁が悪いもの(断ち切るべきもの)かを判断しようとすると、話がとても難しくなります。その良し悪しの判断基準は?良いと悪いに振れる境界線は?それはいついかなる時も変わらないのか?自分だけの物差しで決めて大丈夫?
そこに答えることはとても難しく、誰かが答えを述べたとして、それが本当に正しいかどうかを判断することも難しいですね。共感することはできたとしても。
諸法無我の考えに乗っ取ると、普遍的・不変な基準などというのはどこにも存在せず、良縁・悪縁は存在しないということになります。
そもそも縁の良し悪しを解釈・判断する人(例えば私)の感覚が、これまでの自身を取り巻く縁によって定義づけられているのだから、その良し悪しの前提を辿ろうとしても、自分の過去であったり、さらには自身の人生を超えた範囲や時間についてどこまでも遡っていくだけの、無限訴求になってしまうわけです。

例えば、東大に合格したことが良い縁と思うのは、「東大を目指していた私」がそこにいたからであり、じゃあ「東大を目指していた私」はどこから生まれたのか、それは自ら望むべくしてそういう私を作ったのか、というと、育ってきた環境の影響を受けてそういう私になってきた、状況の結果に過ぎない。
そして、その環境すら、親の経験や、社会的情勢の煽動によって作り出されたものだったりするわけです。例えば親の価値観であったり、学歴を偏重する時代感覚だったり。
そうこうして、ある年齢になって自分の人生を振り返ったときに、「なんのために生きてきたのか」と足元が宙に浮いたような感覚になり、物事の良し悪しが急に判断がつかなくなることがあるのは(そして現代病のような症状に至ってしまうのは)、この縁起と諸法無我の無限訴求が起きているわけです。

ハラスメントや虐待を、被害者側からの働きかけで無くしがたい理由の1つでもあります。
(その瞬間・その側面だけを切り取れば、そういった縁はすべて断ち切るという判断に至るはず。断ち切らない・できないのは、そういった「(悪)縁に生かされてる私」も存在するからで、その縁を悪として断ち切ることは、縁に生かされた私の存在自体をも否定することにもなる。その先どうなってしまうのかが見えない、だからそこまでの決断が下せない、ということです。「側から見て明らかに悪質な異性と別れられない人・明らかにブラックな職場を辞められない人」といえば、イメージしやすいでしょうか)

つまり良縁・悪縁というのは、その縁を一瞬・一側面的に捉えたときのラベル付けに過ぎず、違うタイミングで、違う側面で見れば、逆の解釈になってしまうこともある。
その本質を探ろうと試みたところで、根っこや中心といったものは存在せず(or認識不可能で)、思考の無限ループにしかならない。
そんな縁が複雑に絡み合った中で生きる、というのは、とても頭と心が疲れるのであります。
(その疲れる感覚ですら、「縁に縛られない生き方」を志向する自身の一側面に過ぎず、「縁に生かされてきた今までの私」を否定する、無限訴求をしているからです。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?